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ホーエンツォレルン家

ブランデンブルク選帝侯、さらにプロイセン王国の王家を世襲し、18世紀後半、フリードリヒ2世が啓蒙専制政治を行った。1871年、ヴィルヘルム1世がドイツ皇帝となり、ヴィルヘルム2世が帝国主義政策を展開したが第一次世界大戦で敗れて退位し、消滅した。

 ブランデンブルク選帝侯国、プロイセン王国の国王、さらにドイツ皇帝となった、ドイツの一族。はじめはシュヴァーベン地方の小貴族でツォレルン伯と称したが、1192年フリードリヒがニュルンベルク城伯に封じられ、その子コンラートとフリードリヒが分割相続で、前者のフランケン系と後者のシュヴァーベン系に分かれた。

ブランデンブルク選帝侯国

 1415年、フランケン地方に領邦国家を形成したフランケン系のホーエンツォレルン家ジギスムントは、神聖ローマ皇帝よりホーエンツェレルン伯爵の爵位を授けられフリードリヒ6世を名乗った。さらにブランデンブルク地方の領主としてブランデンブルク辺境伯に任じられ、選帝侯のひとりとなったので、ブランデンブルク選帝侯国の君主の地位を世襲することとなった。

プロイセン公

 1618年、領土をさらに拡張したブランデンブルク選帝侯ヨハン=ジギスムントがプロイセン公国の公位を継承し、ここに両国はブランデンブルク=プロイセンとして同君連合国となった。三十年戦争では新教側諸侯として戦い、ウェストファリア条約では東ポンメルン(現在のポーランド北部)を獲得した。
 三十年戦争中の1640年に20歳で選帝侯を継承したフリードリヒ=ヴィルヘルムは、オランダからの移住者、さらにフランスからのユグノー(新教徒)の移住を受けいれ、荒廃したプロイセンの土地を再興させ、停滞した経済を活性化をはかった。

プロイセン国王

 1701年には、選帝侯フリードリヒスペイン継承戦争でオーストリアのハプスブルク家を助けたことからホーエンツォレルン家のフリードリヒは「選帝侯」から格上の「国王」の称号が認められ、プロイセン王国となった。

Episode 自己演出した国王就任式

 ブランデンブルク選帝侯にしてプロイセン公であるフリードリヒは、「国王」の称号を渇望していた。そこで、彼は他の帝国選帝侯たちの同意を取り付けるために莫大な金品を贈るという作戦を開始した。賄賂作戦は神聖ローマ皇帝ハプスブルク家に対しても行われ、30万ターレルを献上し、さらにスペインと交戦中の皇帝軍を支援する名目でプロイセン兵士1万人を派遣、それだけでなく毎年10万ターレルの献金を約束した。金品の贈与作戦は確かに功を奏した。
(引用)フリードリヒ“選帝侯”は、1701年ケーニヒスベルク城内の礼拝堂でいわば“一方的に”戴冠式を挙行し、選帝侯の身分からプロイセンの国王という身分に独断的に自分を昇格させてしまったのです。けれどもオーストリア・ウィーンのハプスブルク本家では、誰一人この自己演出になる国王就任式などまったく相手にせず、冷笑に付す対応に終始しました。つまりプロイセンの選帝侯フリードリヒは、その程度にしか評価されていなかった、軽んじられていたということです。<マンフレッド・マイ/小杉尅次訳『50のドラマで知るドイツの歴史』2003 ミネルヴァ書房 p.121>

フリードリヒ=ヴィルヘルム1世

 こうして強引に自らを「国王」に昇格させたフリードリヒであったが、その虚勢のためにたちまち国家財政は危機に陥った。次の国王フリードリヒ=ヴィルヘルム1世(祖父の選帝侯フリードリヒ=ヴィルヘルムと同名)は、豪奢な宮廷生活やロビー外交を封印して徹底した節約を行い、国家管理と運営につとめ絶対王政体制の整備を進めた。その結果、プロイセン王国はドイツ諸邦の中で、オーストリアと並ぶ有力な領邦となっていった。

フリードリヒ2世

 次のフリードリヒ2世は啓蒙専制君主としてプロイセンの上からの近代化に努めながら領土の拡張をめざし、マリア=テレジアのハプスブルク家家督継承に異議を唱えてオーストリア継承戦争に持ち込み、シュレージェンを獲得、さらにその奪還を目指すオーストリアとの間で七年戦争を戦ってその地を確保した。大王と言われた彼は、ベルリンの南西郊外のポツダムにサンスーシ宮殿を造営した。

ドイツ統一問題

 ナポレオン戦争ではナポレオン軍に敗れ、苦境に立たされ、国内ではシュタインとハルデンベルクによる改革も行われたが不十分なものに終わった。ナポレオン戦争後、ドイツ統一がいよいよ具体的な課題とされ、フランクフルトで国民会議が開催されたが、プロイセンとオーストリアの対立は解けず、話し合いでの統一はできなかった。
 ウィーン体制の保守反動に反対する自由主義や民族主義の運動は1848年にベルリンでも三月革命として激化した。ホーエンツォレルン家の権威も動揺し、危機を迎えたが、そこに登場した宰相ビスマルクの強力な主導権によってプロイセンは軍国主義化を進めていった。

ドイツ皇帝

 普仏戦争に勝利した後、ビスマルクは1871年、フランスのヴェルサイユ宮殿の鏡の間でドイツ帝国の成立を宣言し、プロイセン国王のホーエンツォレルン家ヴィルヘルム1世が、ドイツ皇帝となった。
 次のヴィルヘルム2世は、ビスマルクを退けて親政を行い、ドイツ帝国の帝国主義的な世界政策を掲げ、イギリス・フランスとの全面戦争に突入、第一次世界大戦をもたらし、敗北の結果、1918年に退位し、ホーエンツォレルン家(フランケン系)によるドイツ統治は終了した。
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