印刷 | 通常画面に戻る |

バルカン問題

オスマン帝国が後退した後のバルカンの分割をめぐる帝国主義列強の対立。「ヨーロッパの火薬庫」といわれ、第一次世界大戦の要因の一つとなった。

ヨーロッパの火薬庫
ヨーロッパの火薬庫

東方問題

 バルカン半島は13世紀以降、オスマン帝国の侵出によって、複雑な民族対立、キリスト教(ギリシア正教など)とイスラーム教の対立など複雑な歴史的環境に置かれた。19世紀にはオスマン帝国の衰退に乗じた、東方問題といわれるオスマン帝国支配下のギリシア人やスラヴ系民族の独立運動に、オーストリアやロシアが絡んで対立するという図式が続いたが、それにひとつの決着を付けたのが露土戦争とそれに続くベルリン会議、および1878年のベルリン条約であった。

バルカン諸国の対立

 ベルリン条約によって独立が認められたセルビアモンテネグロなどのスラヴ系諸国にとって、青年トルコ革命の混乱に乗じて、オーストリア=ハンガリー帝国がボスニア=ヘルツェゴヴィナを併合したことは、大きな脅威であった。またロシアは対抗して、ベルリン条約で阻止された南下政策を再び活発にし始めた。一方オスマン帝国もヨーロッパ内の領土を維持することに必死であった。このような情勢からバルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」と言われるようになった。

火がついたヨーロッパの火薬庫

 1912年にスラヴ系諸国がロシアの支援でバルカン同盟を結成したことはバルカンの危機を一気に高めることとなり、同年の第1次バルカン戦争(バルカン諸国対オスマン帝国の戦争)となってバルカン問題は火がついてしまった。
 ついでブルガリアの領土拡大の動きに他国が反発してバルカン同盟国家間に対立が生じ、翌13年に第2次バルカン戦争(ブルガリア対セルビア・ギリシア・オスマン帝国などの戦争)となった。この戦争はブルガリアの敗北で終わったが、各国とも領土的な不満を残すこととなる。そして翌1914年、オーストリア=ハンガリー帝国支配下のボスニアでサライェヴォ事件が勃発、第一次世界大戦に突入することとなる。
印 刷
印刷画面へ