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インフレーション

通貨量の増加から起こる物価騰貴のことであるが、世界史上は第一次世界大戦後の1923年にドイツで起こったインフレが重要。

 ドイツ共和国では大戦当初からインフレーションがはじまっていたが、戦後、戦費調達のために発行していた公債が無価値となったため、1922年8月にドイツ=マルクの崩壊となってさらに進行していた。1923年のフランス・ベルギー軍のルール占領を機に、労働者がゼネストに入って生産がストップしたために一挙に進行した。マルクの価値は戦中に比べ1兆分の1に下落するという天文学的数字となり、労働者、さらには中間層にも大きな打撃を与えた。彼らはインフレの原因は押しつけられた賠償によるものだ、としてヴェルサイユ体制に対する反発を強めた。

ドイツ1923年の危機

 フランスは、ドイツの賠償金不履行を理由に、ドイツの経済生活力にとって不可欠、かつ最重要な工業地帯であったルール地方を占領した。それに対してドイツは、ルール地帯での生産を停止するという受け身で抵抗した。しかし、実際には労働者も企業家も何らかの方法で生計を維持しなければならないので、急いで銀行券の印刷が開始された。しかし銀行の印刷だけでは間にあわず、個人の印刷機を動員しなければならなかった。流通も滞ったので、すべての貨物列車を動かさなければならなかった。こうして1923年にドイツでは実際に貨幣経済が麻痺する事態が生じた。ドル相場は激動し、1923年はじめに1ドル2万マルクだったのが、8月には1ドル100万マルク、三ヶ月後にはもう10億マルクの水準となり、年末にはついに1ドル4兆2000億マルクに増大した。実際ドイツにはもはや1銭もなかったのである。
(引用)1923年以前のインフレは、貨幣価値を奪い去っただけだったが、今では、現金で支払われる収入も無価値になった。インフレは、これまでのように現金預金者の市民だけでなく、ものすごい勢いで労働者をも襲った。要するに、労働の代価となる現金がもう無かったのである――少なくとも、一時間後には無価値になってしまう現金しかなかったのである。ドイツでは、ばかげた状況が支配していた。それが、1923年秋に、政治的生存危機にもつながった。
 1923年秋に、ドイツは政治的生存ぎりぎりの状況だった。いずれにせよ、ルールでの受け身の抵抗を中止しなければならなかった。だがそれでも、この抵抗は、ドイツにとって非常に幸運な結果をもたらした。今では、もう一方の賠償債権国イギリスとアメリカが、もうドイツは行き詰まったとの確信に到達したからである。フランスは、ルールでの冒険的な企てを終わらせるよう圧力を加えられ、ドイツでは、もともと1919~20年に行われる予定だった通貨改革が、ようやく実施されることになった。<ハフナー/山田義顕訳『ドイツ帝国の興亡』1989 平凡社刊 p.175>

シュトレーゼマンによる解決策

 このインフレは連立内閣の首相となったシュトレーゼマンによって解決の方向に向かった。まずシュトレーゼマンは、社会民主党の協力を得て「消極的抵抗」を中止して生産を再開、同時に賠償を支払うという「履行政策」に転換して、イギリス・アメリカなどの国際社会の支持を受け、フランス・ベルギーに対する国際的批判をむけるようにした。11月には、懸案であった通貨改革を断行し、不換紙幣のレンテンマルクを、1兆旧マルクを1レンテンマルクとして発行し、通貨を安定させたことに成功した。このレンテンマルクは、翌年、ライヒスマルクに移行した。こうして経済危機を克服したドイツは、翌1924年にはドーズ案が成立して賠償問題解決の道筋とアメリカ資本によるドイツ経済の復興へと向かい、1925年からの相対的安定期を迎える。
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