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労兵評議会/レーテ

1918年11月、キール軍港の水兵反乱から全国に波及した労働者と兵士の協議会。革命運動の挫折によって消滅した。

 第一次世界大戦末期、キール軍港の水兵反乱から始まったドイツ革命の推進機関として、各地に労働者と兵士の評議会が生まれた。レーテとはドイツ語で「評議会」を意味し、前年のロシア革命を推進したソヴィエトにならって組織された。  各地で兵士(在郷軍)は兵士評議会を、工場では労働者評議会が組織され、ミュンヘンなどの大都市ではレーテは一種の行政を引き継いだ。全国に労兵評議会が結成された情勢を受け、ドイツ帝国政府は戦争の継続の断念し、皇帝ヴィルヘルム2世は11月9日に退位し、オランダに亡命した。これによってドイツ帝国は崩壊し、ドイツ共和国の臨時政府が社会民主党によって運営されることになった。

ドイツ革命の転換の失敗

 しかし、帝政は打倒され共和政ドイツが発足したが、臨時政府の実権を握った社会民主党は、かつてのような社会主義政党ではなく、資本家や軍の一部とも結ぶ保守政党に変質していた。かつての社会民主党左派のローザ=ルクセンブルクやカール=リープクネヒトらが結成していたスパルタクス団は12月にドイツ共産党に改称し、ドイツ敗戦を社会改革の絶好の機会と捉え、水兵反乱から生まれた労兵評議会(レーテ)への権力移譲を主張した。社会民主党は議会制民主主義を採り、国民議会の開催を主張した。両派の違いは埋まらず、翌1919年1月、ドイツ共産党はドイツ革命を一気にプロレタリア革命に転換させようと武装蜂起した。しかし、右派義勇兵を動員した臨時政府は共産党指導者を捕らえて殺害し、ドイツ革命の社会主義革命への飛躍は阻止され、2月社会民主党のエーベルトが臨時大統領に選出され、資本主義と議会主義を維持するヴァイマル共和国の成立へと向かう。
 ドイツ革命の社会主義革命への転換は失敗し、労兵評議会(レーテ)は消滅した。
 → ヴァイマル憲法の制定。ドイツ共和国
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