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ドイツ共産党

1918年12月にスパルタクス団が改称。1919年1月の武装蜂起に失敗した後、1920年代にはコミンテルンに属し革命をめざしたがいずれも失敗した。

 ドイツの社会主義運動には、マルクスエンゲルスによる1848年発表の『共産党宣言』以来の歴史がある。マルクス主義を継承したベーベルらとは別に、労働者の権利を社会改良で実現しようとするラサールらの流れが生まれた。この両派は1875年に合同してドイツ社会主義労働者党を結成したが、ビスマルクの社会主義者鎮圧法によって非公然活動に追いこまれた。
 1890年にビスマルクが退陣するとともに鎮圧法も解除されたので社会主義労働者党は公然とした活動を再開するとともにドイツ社会民主党と改称し、翌年のエルフルト綱領でマルクス主義を標榜して社会主義革命を目指すことを明確にした。そのころ、ドイツの工業化が進んだことで労働者階級が大量に生まれ、彼らの支持を背景に社会民主党は党勢を伸ばし、1912年には帝国議会の議席110を占める第一党となった。
 しかし、1914年に勃発した第一次世界大戦は、まだ未熟であった社会主義運動に深い分裂を持ち込む契機となった。社会民主党は戦争を支持し、祖国を守ることが労働者の利益につながると考える勢力と戦争は資本家の利益につながるのみで労働者の生活を破壊するものと受け取り、祖国の防衛よりも国際的な労働者の解放のためには戦争に反対すべきであるというグループが対立するようになった。この対立は1887年に再開された国際社会主義運動である第2インターナショナルの国際連帯も崩壊させた。

ドイツ社会民主党の分裂

 ドイツの第一次世界大戦参戦をめぐって社会民主党の多数派はシャイデマンやエーベルトが指導し、祖国の世界大戦への参加を支持したが、カール=リープクネヒトローザ=ルクセンブルクなどの少数派が戦争への協力を拒否し、分裂が決定的となった。戦争反対派はスパルタクス団というグループを結成、独自の活動を開始し、1917年新たにゴータで独立社会民主党を結成した。独立社会民主党は反戦を掲げて党勢を伸ばし、社会民主党を脅かすようになった。

ドイツ革命

 第一次世界大戦が長期化するとともに総力戦となったために国民生活に深刻な影響が現れた。特にイギリスの海上封鎖もあって食糧不足が深刻になり、小麦やジャガイモが騰貴し、飢饉が発生した。この社会情勢の悪化のなかで戦争反対の声が強まると、スパルタクス団や独立社会民主党は盛んに兵士・労働者に戦争反対を働きかけた。1918年11月3日、キール軍港の水兵反乱が起きると、反戦の声は全国に波及、各地に労兵評議会(レーテ)が組織された。これが、ドイツ革命が始まりであった。

ドイツ共産党

 兵士・労働者をレーテに組織することを指導したカール=リープクネヒトらは、革命の指導部として1918年12月30日にドイツ共産党を組織することを決議した。そのを中心となったのはリープクネヒトとともスパルタクス団を指導したローザ=ルクセンブルクであった。彼らはロシア革命におけるソヴィエトによる権力獲得にならい、レーテへの権力集中によって一気にドイツでもプロレタリア革命を実現しようとして1919年1月5日、武装蜂起に踏み切った。それに対して権力をにぎったドイツ社会民主党政権は、軍と結んで革命阻止に動き、反革命義勇軍を動員してカール=リープクネヒトとローザ=ルクセンブルクを捕らえ、1919年1月15日に二人を殺害した。こうしてドイツ革命は武力で鎮圧され、ドイツの社会主義革命は挫折した。

ヴァイマル体制

 第一次世界大戦後は、ヴァイマル共和国のなかで、ドイツ共産党は一定の批判勢力として存続し、インフレなどで苦しむ労働者層の支持を受け党勢を拡大していった。20年代のドイツ共産党の動きはコミンテルンに加盟して国際的な連携を強めてドイツ革命を継続するものであるとともに、国民の支持を得て議会でも議席を獲得するようになっていった。政権を握る社会民主党に対しては共産主義の理念とは対立する「社会民主主義」と捉えて批判的であった。ヴァイマル共和国の政治情勢が不安定になる中、共産主義や社会民主議を攻撃するファイズム勢力が、資本家階級や大衆の不安を煽り、ヴェルサイユ体制の打破を掲げてて支持を拡げていくという情勢となっていった。

世界恐慌

 1929年に世界恐慌がウォール街で発生すると、戦後復興資金をアメリカに依存していたドイツ経済は直接的な影響を受け、一挙に深刻な不況に陥った。共産党は労働組合を指導し、ストライキなどで生活と権利の要求を掲げて戦ったが、資本家階級の中には共産主義革命を恐れて警戒するようになり、反共産党を掲げるヒトラーナチ党に期待を寄せるようになった。

ナチスによる共産党弾圧

 1932年7月、ドイツで行われた1932年選挙では、ナチ党が230議席を占めて第一党となり、第2党は社会民主党は133、共産党は89議席で中央党に続く第4党となった。同年11月の選挙でナチ党は196に減ったものの第一党は維持したため、1933年1月、ヒトラー内閣が成立した。
国会議事堂放火事件 権力を握ったヒトラーのナチ党は、議会内での3分の2以上の安定勢力を目指し、共産党を追い落とすための陰謀を実行した。それが同1933年2月27日に発生した国会議事堂放火事件であった。この事件は発生直後に共産党員が実行犯であるとされ、翌日はヒトラー内閣によって緊急事態を理由とした国民の基本的人権を停止する宣言が出された。
合法活動の禁止 この事件はコミンテルンの指示によるディミトロフらの犯行とされたが、裁判ではそれは立証できず、元オランダ共産党員のルッベの単独犯行とされディミトロフは無罪となった。また、直後の1933年3月に行われた選挙ではナチ党は288議席で単独過半数に届かず、共産党も81議席を維持し、ヒトラーの意図したような結果にはならなかった。しかしヒトラーは新たに招集された議会で1933年3月24日全権委任法を成立させた。それは議会の立法権を制限して内閣に対し無制限の立法権を賦与するもので、ナチ党の暴力的な威嚇を前にブルジョワ政党(カトリック中央党)が同調、社会民主党議員の大部分と共産党議員はすでに逮捕されて出席できない中で採決され、賛成多数で成立した。議会の意義を議会そのものが否定するという自殺行為を意味しており、ドイツの議会政治の終焉であった。
 ドイツ共産党は国会議事堂放火事件の翌日から多数が拘束され、3月3日には委員長のテールマンが逮捕され、14日には解散命令を受けた。ブルジョワ政党は自発的に解散が続き、6月に社会民主党および労働組合が解散させられ、7月14日には新政党結成が禁止されてナチ党の一党独裁体制が成立した。こうしてドイツ共産党はヒトラー政権の下で合法的な活動は禁止され、その多くは地下に潜って活動し、また何人かの党指導部はソ連に亡命してソ連共産党=コミンテルンに参加した。

東ドイツの社会主義統一党

 第二次世界大戦の戦後、ドイツは東西に分割され、東ドイツでのソ連の主導権が確立すると、戦争中にソ連に亡命していたドイツ共産党党員は東ドイツに戻った。ドイツに戻った共産党指導部はソ連の軍事力を背景に、社会民主党との合同を強行し、社会主義統一党(SED)を組織した。社会主義統一党はドイツ共産党の後継政党として、ドイツ分裂後のドイツ民主共和国(東ドイツ)の一党独裁体制のもとで体制政党として社会主義建設を進めた。東ドイツはソ連の衛星国家と位置づけられ、党はソ連共産党とコミンフォルムの指導が続いた。スターリン体制とその後の東西冷戦下で次第に社会主義体制が硬直化し、1989年の東欧革命の時期を迎えることとなる。
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