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フィヒテ/ドイツ国民に告ぐ

18世紀末に活躍したドイツ人哲学者。ナポレオン支配下のプロイセン・ベルリンでの講演「ドイツ国民に告ぐ」はドイツ人に国民国家形成を強く呼びかけた。

 フィヒテ Johann Gottlieb Fichte 1762~1814 はプロイセンのイエナ大学哲学教授。ドイツ観念論を大成したカントの後継者として、名声を確立していた。ベルリンに招かれた頃、プロイセンは事実上のナポレオンの支配下に組み込まれる。その中で1807年~08年にかけて、ベルリン・アカデミーで「フィヒテの「ドイツ国民に告ぐ!」」と題した14回にわたる連続講演を行った。プロイセン改革にも大きな力となり、フィヒテ自身も改革によって新設されたベルリン大学の総長に迎えられた。

プロイセンの敗北

 ドイツの最有力諸邦の一つであったプロイセンは、フランス革命への干渉戦争に敗れ、さらにナポレオン戦争の一環である1806年10月のイエナの戦いで大敗、ティルジット条約によって国土を大幅に失い、事実上、ナポレオンの支配下に組み込まれた。ただし、ドイツ人にとって、この敗北はかならずしも屈辱として受け止められたのではなく、特にライン左岸ではナポレオンはドイツ諸侯による支配から民衆を解放する戦士として受け止められた。
 しかし同時に、当時多くの領邦国家に分裂していたドイツ人の民族的自立と国民国家としての統一を模索する動きも出てきた。1806年からの首相シュタインプロイセン改革に着手し、その追放後はハルデンベルクが継承し、農民解放などの近代化が始まった。そのような中で行われたフィヒテの演説は、ドイツ国民の精神を蘇らせようとしたものであって、大きな感動を引きおこした。それは当時、まだ明確ではかった「ドイツ国民とは何であるか」という問いに答えるものであり、フランスの支配から「ドイツ人が脱出すべく自由のために戦うことは、同時に人類の進歩のために戦うことであると述べたのである。」<阿部謹也『物語ドイツの歴史――ドイツ的とは何か』1998 中公新書 p.186-187>

「ドイツ国民に告ぐ」

 フィヒテ1807年~08年にかけて、まだフランス兵の駐留するベルリン・アカデミーで連続講演を行った。それは「ドイツ国民に告ぐ!」と題して、今こそ“国民的品性の涵養”が必要であると説き、「本来のドイツ人に立ち返ろう」と訴えた。
 フィヒテはどんなことを訴えたのだろうか。その一部を見てみよう。
(引用)…………余が予告した国民救済の手段とは、まったく新しい、これまで個人にはほんの例外的にしか存在せず、決して一般的かつ国民的自己としては存在していなかったような自己を養成することである。それは国民全体の教育であり、今までの生命が消え他国民の生命の付属物となってしまった国民を教育して、全く新しい生命をえさせ、この生命を国民固有のものにするか、あるいはその生命が他国民に分け与えられても、少しも減少せず、全体として存在しつづけるような無限の生命にならせることである。…………<『新訳世界史史料・名言集』1975 山川出版社 p.107 木谷勤訳>
 ここでは、ドイツ国民救済の手段として最も重視したことが「国民教育」の必要と言うことであると述べている。この時点ではドイツ人は一つの民族国家に属していたのではなく、プロイセンやバイエルンなどの多くの領邦に分かれていた。いち早くフランス革命とナポレオンの登場によって国民国家建設を進めているフランスに敗れたことから、ドイツにおいても国民国家の形成を促し、そのためにいまだ存在しなかったドイツ人としての民族的自覚を植え付けるために教育から着手しよう、と言うことであろう。
 その前提としてフィヒテは「この講演の一般的な目的は、打ちひしがれた人々に勇気と希望をあたえ、深い悲しみのうちに喜びを告げしらせ、非常に困難な時期を楽におだやかに過ごせるようにすることである<同上>」として、講演の多くの部分でドイツ民族のいかに優秀であるかを強調している。フィヒテが希望として見いだしたのは「ドイツ国民精神」ともいうべき観念であった。それは、当時の知識人の多くが啓蒙思想の影響下にあって世界市民主義に傾倒していたことに対する批判となった。フィヒテはいわば健全、穏健なナショナリズムを説いたのであったが、ドイツ・ナショナリズムが第一次世界大戦の敗北を経て、ナチズムという偏狭な民族主義に変質していくことになるとは想定していなかったのではないだろうか。
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書籍案内

阿部謹也
『物語ドイツの歴史』
1998 中公新書

『新訳世界史史料・名言集』
山川出版社

福吉勝男『フィヒテ』
Century Books―人と思想
1990 清水書院