| 印刷 | 通常画面に戻る |

ドイツの反乱

1830年、フランスの七月革命の影響を受け、ドイツ連邦各地でも憲法制定の動きが強まり、各地で反乱が起こり、一部の領邦では31年~33年にかけて憲法が制定された。運動は33年に最大の盛り上がりを見せたが、市民の自由要求とともに、共和政、ドイツ統一の要求が強まったことに衝撃を受けたメッテルニヒらによって弾圧され、憲法も破棄された。

 ウィーン会議で調印されたウィーン議定書によって成立したドイツ連邦でも、憲法を制定して君主の権限を制限し、市民の自由や平等を実現しようとする運動が起こってきた。また、連邦の議長国であるオーストリア、それに対抗するプロイセンという二大勢力の対立抗争によってドイツ人国家の形成が妨げられていることへのいらだちなどが高まっていた。

諸邦での憲法制定

 1830年7月、フランスの七月革命で復古王政が倒され、ブルジョワジー主体の立憲王政である七月王政が成立したこと、さらにその影響でベルギーが独立したことはドイツ諸邦の民衆に強い刺激を与えた。特に北ドイツのブルジョワジーに希望をあたえ、ザクセン、ハノーファー、ブラウンシュヴァイク、クールヘッセンで暴動が起こり、それによってこれらの国では31~33年にかけて新たに憲法が制定されていった。これらの諸邦では憲法制定とともに農奴解放が進み、自由主義が広がっていったが、最大の領邦であるプロイセンなどドイツ東部ではグーツヘルシャフト(大農園)領主である支配層の力が根強く、彼らはドイツにおける七月革命の影響の拡大を警戒するようになった。

運動の高揚 ハンバハの集会

 運動は次第に市民の自由とドイツの統一を求める用になった。自由主義とナショナリズムをもとめる急進派は知識下級を中心にひろがり、領主・地主階級と結ぶ旧来の政治権力の打倒、統一されたドイツ共和国の樹立を掲げるようになった。そのメンバーの中には、パリ滞在中に自由主義思想の影響を受けた文学者ハインリヒ=ハイネらがいた。彼らは1833年5月、バイエルン領プファルツの古城ハンバハで集会を開いた。「自由と統一」を旗印とした集会には約3万人が集まり、フランス革命のシンボルである「自由の木」を押し立てて共和国家の樹立を求た。この時、ブルシェンシャフトで掲げられたドイツ統一を象徴する三色旗が掲げられ、それと並んでポーランドやフランスの旗もひるがえった。集会では数日にわたって議論が続いたが、結論は「自分たちはいま国民の名においてドイツ革命を開始する権限はない」というものに終わり、期待して見守っていたハイネを嘆かせた。

運動の弾圧と冬の時代

 結局、運動は知識人、学生のなかにとどまり、民衆の中への広がりを欠くものであったと言えるが、オーストリアのメッテルニヒをはじめとするドイツ連邦の諸政府はこの集会に非常な衝撃を受けた。1834年4月には学生を中心とする50人がフランクフルトの連邦議会を占拠してドイツ革命を口火を切ろうとしたが、それを機会に警察当局は彼らを謀反罪で逮捕、あわせて1800人を拘禁して運動は鎮圧された。連邦議会は出版、集会の自由を制限する立法を行い、ハイネはパリに亡命し、その他の活動家もスイス、フランス、アメリカに逃れ、ドイツの自由と統一を求める運動は再び「冬の時代」に入った。
ゲッティンゲン七教授事件 ドイツ連邦諸邦では、1831~33年に制定された憲法も廃棄されていった。1837年、イギリスでヴィクトリア女王が即位すると、同君連合であったハノーファー王国では女性の王位継承が認められなかったのでエルンスト=アウグストが新国王となったが、新国王は1833年に制定された憲法を破棄した。1837年11月、それに対して領内のゲッチンゲン大学の歴史学教授ダールマンは同僚の歴史家ゲルヴィヌス、言語学者のグリム兄弟らとともに抗議し、職を追われるというゲッティンゲン七教授事件が起こった。
 ドイツにおいて、自由主義・国家統一の要求が再び勢いを増すのは、1848年のベルリン三月革命とウィーン三月革命を待たなければならない。<以上、『ドイツ史』世界各国史3 1977 p.251-256/『ドイツ史』上 YAMAKAWA Selection p.211-212 いずれも山川出版社 をもとに構成>