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ハノーヴァー朝/ハノーファー

1714年、イギリスのステュアート朝断絶により、ドイツのハノーファー選帝侯を国王に迎えた。国王は政治には関与しない責任内閣制が成立した。1901年からサックス=ゴバーグ=ゴータ朝に代わった。

 1701年、ステュアート朝ウィリアム3世の時に制定された王位継承法に基づいて、1714年アン女王が継嗣がなく没したとき、ドイツのハノーヴァー選帝侯ジョージがイギリス王ジョージ1世として即位した。ここからハノーヴァー朝(註)という。 → イギリス(6)
(註)ハノーヴァーは英語読み。ドイツではハノーファーと発音し、ジョージもゲオルクという。従ってドイツではハノーファー選帝侯ゲオルクが正しい表記であるが、ここでは混乱を避けてイギリス国王となってからのハノーヴァー朝ジョージ1世の表記と合わせた。
 なお、ドイツのハノーファー選帝侯国は、ドイツ連邦を構成する領邦の一つであったが、1866年に普墺戦争の結果、ドイツ連邦が解体された際に、プロイセン王国に併合されて消滅する。

ドイツから国王を迎える

 1701年の王位継承法とは、共同統治者であったウィリアム3世とメアリ2世には継嗣が無く、またメアリの次の国王を予定されていたアンの子供も死んでしまっていて、王位継承を巡って争いが起きることが予想されたので、安定的な継承原則を定めておく必要があったところから、「ステュアート朝の血を引く、新教徒であること」とされた。それによってジェームズ1世の孫娘ソフィ-がドイツのハノーファー選帝侯エルンスト=アウグストとの間にもうけたゲオルクが王位を継承することになり、ジョージ3世として迎えられた。

責任内閣制の成立

 ジョージ1世はイギリス王位とハノーヴァー選帝侯の地位を兼ねた。ジョージ1世は英語をほとんど解せず、しかもロンドンに馴染まずにハノーヴァーに滞在することが多かった。イギリス国政に関与することが少なかったので、イギリスの政党政治が定着し、責任内閣制の原則が確立していった。ジョージ1世の時、国政全般を蒔かされたのが、ホィッグ党に属する政党政治家、ウォルポールであり、そのもとで政党政治が定着した。

ハノーヴァー朝の国王

 ハノーヴァー朝はジョージ1世(1714~27年)の後、ジョージ2世(1727~60年)、ジョージ3世(1760~1820年、アメリカの独立、フランス革命、産業革命の時代)、ジョージ4世(1820~30年)、ウィリアム4世(1830~37年)と続き、19世紀後半のヴィクトリア女王時代(1837~1901)に、大英帝国の繁栄期を迎える。
 なお、ヴィクトリア女王から、ハノーヴァー公の地位は女性の相続が認められなかったのでイギリス国王単独となった。ヴィクトリア女王とアルバート公の間に生まれたエドワード7世の即位した1901年から王朝名はサックス=ゴーバーグ=ゴータ朝に代わったとされることもあるが、日本では通常、1917年までをハノーヴァー朝とすることが多い。
 ヴィクトリア女王の次は、エドワード7世(1901~10年。即位したときすでに60歳)、ジョージ5世(1910~36年)となり、第一次世界大戦を迎える。

ウィンザー朝

 イギリスの王朝でありながら、ハノーヴァー朝(およびサックス=ゴーバーグ=ゴータ朝)はドイツの家系を継承するものであったので、第一次世界大戦が始まった後の1917年、ジョージ5世のときにドイツ風の王朝名を改めることとなり、王宮の所在地にちなんだウィンザー朝となった。第一次世界大戦後、大英帝国のかつての栄華が薄れてきたことが明確になった時期、1936年に王位を継承したエドワード8世は、ウィリス=シンプソンという二度の離婚歴のある愛人と結婚することを決意し、王位を放棄した。彼はラジオで王位放棄を国民に告白し「王冠を賭けた恋」として世界中にセンセーションをまきおこした。
 王位は弟のヨーク公に回ってきたがヨーク公ジョージは吃音という悩みをかかえていた。彼がジョージ6世として国王となった即位のスピーチで大失敗してから、妻と言語治療士の助力でそれを克服し、第二次世界大戦の困難に立ちむかう姿は映画『英国王のスピーチ』で描かれ、評判となった。このジョージ6世の次に、1952年に即位(即位式は1953年)したのが、現在のエリザベス女王である。
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