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イタリアの反乱

1831年、オーストリア支配下のイタリアで起こった、独立と統一をめざす反乱。オーストリア軍に鎮圧された。秘密結社の反乱は失敗し、「青年イタリア」結成への転換点となった。

七月革命の影響

 フランスの七月革命の影響を受けてイタリアで起こった、オーストリアからの独立と自由を求める民衆蜂起。1831年2月、パリに亡命していた自由主義者ブォナロッティらが指導し、中部イタリアのモデナ公国、パルマ公国、ボローニャ(教皇国家の中心都市)などで自由主義者が蜂起した。反乱の範囲から、「中部イタリアの反乱」ともいわれる。モデナとボローニャには一時臨時政府が成立した。革命政府は立憲君主政による政治改革をめざし、ローマ教皇の世俗権による統治を否定、出版・結社の自由を掲げた。
 モデナ公フランチェスコ4世は、当初、モデナ公国の拡大を目論んで革命を支持したが、革命の急進化を恐れて指導者メノッティを逮捕、革命政府はフランスの七月王政政権の支援を期待したが、その動きはなく、また各都市間の連携もなかったので、3月末にはオーストリア軍の出動によって鎮圧された。参加した自由主義者の多くは国外に亡命した。
※ブオナロッティ 1761-1837 フィリッポ=ブオナロッティはミケランジェロの子孫と自称するイタリア人。ルソーの影響を受け、フランス革命が起こるとパリに行き、ジャコバン派に加わる。フランスに帰化して革命に没頭、ロベスピエールに協力したが、テルミドールのクーデタで入獄。獄中でバブーフと知り合い、その共産主義的思想に共鳴、いわゆるバブーフの陰謀に加わった。再び逮捕され、出獄後はジュネーヴやブリュッセルで活動しながら、各地の秘密結社結成を指導。1830年、七月革命が起こったことを機にパリに戻り、カルボナリの残党のイタリアの反乱を国外から指導した。民族を越えた徹底した平等主義、自由主義を生涯追求した革命家であった。

運動の転換へ

 カルボナリの蜂起に続いて運動が挫折したことは、従来の秘密結社を主体とした運動の限界を示していた。中部イタリアの反乱が鎮圧されつつあった2月10日にジェノヴァから亡命に旅立った青年弁護士マッツィーニは、明確にイタリアの統一と独立を打ち出し、その方針を具体化する公然とした政党組織が必要であると考えた。同年末に亡命先のマルセイユで「青年イタリア」を結成することになる。 → イタリア統一運動(リソルジメント)

イタリアのナショナリズム

 七月革命の影響は、イタリアの反乱だけではなく、ウィーン体制下のヨーロッパ各地に及んでいった。同じようにオーストリアの支配に対してポーランドの反乱が起こり、ドイツ各地でもドイツの統一と憲法の制定を求めてドイツの反乱が起こっている。これらはいずれもウィーン体制の反動政治に対する、自由主義ナショナリズムの運動の高揚をしめす出来事であった。
 1831年のイタリアの反乱が鎮圧された後、マッツィーニらが結成した青年イタリアはさらに1833~34年にサルデーニャ王国で決起を図ったが失敗、その後も蜂起を試みたがいずれも鎮圧されてしまった。しかし、青年イタリアの蜂起は、公然としたイタリア統一(リソルジメント)運動の明確な始まりとなった。その転機となったのが、1831年のイタリアの反乱であった。
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