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ドイツ騎士団

ドイツ諸侯の保護で作られた宗教騎士団。後のプロイセンにつながる。

 中世ヨーロッパの宗教騎士団の一つ。1190年、第3回十字軍の時、リューベックとブレーメンの商人が建てた病院が起源で、ドイツ諸侯が保護して発展させ、1199年、教皇の承認を受け宗教騎士団となった。
 ドイツ騎士団は聖地の警護にあたる宗教騎士団として発足したが、聖地ではあまり活動せず、ドイツに拠点を置き、ドイツを本拠として東方植民に参加し、スラヴ系の居住地区に進出していった。1211~25年にはハンガリー王国に侵攻、さらにロシア進出を狙ったが、1242年に「氷上の戦い」でアレクサンドル=ネフスキーと戦って敗れ、それ以上の東方進出は出来なかった。

ドイツ騎士団領の成立

 ドイツ騎士団は1291年、十字軍の最後の拠点アッコンが陥落したために、現地にいたものもドイツに帰国した。すでに進められていたバルト海沿岸のプロイセン人(後のプロイセン人と区別して古プロイセン人といい、リトアニア語やラトビア語と同じバルト語系に属する)の居住地を征服してドイツ人の国家「ドイツ騎士団領」を作った。ドイツ騎士団領の領域は現在のポーランド北部から、バルト三国に及ぶ、バルト海南東岸一帯に拡がり、ローマ教皇と神聖ローマ皇帝からも認められる領邦国家を形成した。
 ドイツ騎士団領は、騎士団総長によって統治された集権的な機構をもち、バルト海での海上貿易を抑え、14世紀には全盛期となった。

リトアニア=ポーランド王国と衝突

 このようなドイツ騎士団の東方進出は、当時大国であったリトアニアとポーランドに大きな脅威を与え、両国はそれに対抗するために1386年に合同して、リトアニア=ポーランド王国となった。1410年にドイツ騎士団は、ヤゲウォの指揮するリトアニア=ポーランド王国軍とタンネンベルクの戦い(グルンヴァルドの戦い)で敗れ、東進を阻まれた。さらに1454~66年のポーランド=リトアニア王国との十三年戦争で敗れ、バルト海への出口グダニスク(ドイツ名ダンツィヒ)を奪われ、ドイツ騎士団領は東プロイセンのみとなり(つまりドイツ本国と切り離され)た。
 なお、タンネンベルクは、現在のポーランドのワルシャワ北方にあり、1914年の第一次世界大戦でドイツ軍がロシア軍に大勝した場所でもある。

プロイセン国家に変化

 16世紀には騎士団長のホーエンツォレルン家がプロテスタントのルター派に改宗した。その間もたびたびポーランドからの自立を試みたが相次いで敗れ、1525年にはポーランド王の宗主権の下で、プロイセン公国となった。
 このプロイセン公国が、1701年、ブランデンブルク選帝侯国と合体し、プロイセン王国に昇格する。 → ドイツの歴史へ
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