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ドイツの軍備制限

ヴェルサイユ条約によってドイツの軍備は陸軍が上限10万とされたほか、詳細な制限が設けられた。ドイツでは国家主権の侵害であるとの不満が強く、その後のナチスの台頭の口実とされた。

 第一次世界大戦の講和条約として1919年に成立したヴェルサイユ条約の第160条で、ドイツ陸軍は7歩兵師団、3騎兵師団を限度として編成され、その総兵力は10万人を超えてはいけないとされた。参謀を含む将校は4千以内とし、参謀本部は解散させられた。また海軍は兵力の上限1万6500を上限とされ、空軍は全面禁止とされた。さらに徴兵制度は廃止とされた。その制限は装備にもおよび、陸軍は重火器、装甲兵器(戦車)の保有は禁止、海軍は艦艇36隻、1隻は1万トン以下、潜水艦は禁止とされた。フランスなどの戦勝国側がドイツに講和の条件として押しつけたこの軍備制限と苛酷な賠償金を柱とするヴェルサイユ体制は、大戦後のドイツの民衆にとって重くのしかかり、不満を強くしていく。 → ドイツ

ドイツの反発

 第一次世界大戦後、ドイツ共和国(ヴァイマル共和国)は、ヴェルサイユ条約を受け入れ、それまでのドイツ帝国陸海軍は解体され、国防軍に縮小された。そのため多くの将校と兵士が職を失うこととなった。彼らはヴェルサイユ体制とそれを受け入れたヴァイマル共和国政府に対する反発を強めていった。彼らの中から多くの右翼政党や暴力的な国粋主義の団体が生まれた。退役伍長だったヒトラー国民(国家)社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)もそのひとつであり、その実力部隊であった突撃隊(SA)も退役下士官や兵士の受け入れ先となっていた。
 1922年、ソ連とのラパロ条約が成立してソ連との国交が開始されると、その秘密協定でドイツ国防軍がソ連の赤軍に協力しながら、ゼークト将軍らが軍事技術の維持に努めたと言われている。一方、1923年のフランス軍などのルール占領の危機を履行政策への転換によって克服したシュトレーゼマン外交は、国際協調に努め、ロカルノ条約を締結して国際連盟加盟を実現、一定の安定期を迎えた。

ドイツの軍備平等権の主張

 ドイツもジュネーヴ軍縮会議に参加し軍備平等権を主張した。それは、ドイツの軍備制限の前提はヴェルサイユ条約第1編の国際連盟規約にある各国の軍備制限を前提としてのであるから、他の諸国もドイツと同程度に軍備を縮小すべきであるというものであった。国際連盟の軍縮という共同目的を逆手に取った軍備平等権の主張は一定の理屈が通っているので、影響力を持ったが、世界恐慌が起こると各国はブロック経済や植民地支配を優先するため軍事力の維持拡大に踏み出し、軍縮の機運は吹き飛んでしまった。そのような中、1933年にドイツにヒトラー内閣が成立すると、かねてヴェルサイユ体制打破を掲げていたヒトラーは、同年10月、国際連盟と軍縮会議が、ドイツの軍備平等権を認めない限り意味がないとして、ドイツの国際連盟脱退を通告した。それによってドイツは国際的な制約から離れ、再軍備(徴兵制復活)へとむかうこととなる。
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