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国際連盟

第一次世界大戦後のヴェルサイユ講和条約の規定によって1920年に設立された、世界最初の国際平和維持機構。集団安全保障の理念による国際協調の推進、地域紛争の解決などで大きな役割をはたしたが、大国アメリカの不参加、ドイツとソ連の不参加(両国は途中で参加)などのため、充分な機能を発揮することができず、特に世界恐慌後のファシズムの台頭の結果、日本・ドイツ・イタリアが脱退、第二次世界大戦を阻止することはできなかった。しかしその理念は国際連合に引き継がれた。

 国際連盟 League of Nations は、アメリカ大統領ウィルソン十四カ条の原則で提案し、第一次世界大戦後の講和会議であるパリ講和会議(1919年2月3日~4月11日)で審議された。4月28日に国際連盟規約として採択、6月28日、講和条約であるヴェルサイユ条約の第1編として各国代表が署名した。発効したのは、1920年1月10日であり、それによって世界最初の国際機関として国際連盟が成立した。

日本、常任理事国に

 本部はスイスのジュネーヴにおかれ、総会・理事会・事務局と、国際労働機関(ILO)・常設国際司法裁判所の2つの外部機構があった。総会は一国一票であり、決議は全会一致を条件とした。常任理事国は最初、イギリス・フランス・イタリア・日本の4ヶ国。アメリカ、ドイツ、ソ連が参加していないため、イギリスとフランスがリードすることが多かった。原加盟国は戦勝国を中心に42カ国。加盟国は最盛時に59カ国だった。

集団安全保障の理念

 国際連盟は世界最初の集団安全保障による平和維持を目的とした国際協力機関として重要な存在であった。集団安全保障とは、
(引用)各国が自国の安全を国際組織に委ねるもので、万一侵略を受けた場合には加盟国全体が被侵略国を援助し侵略国に立ち向かうというものである。同盟との違いは、同盟では加盟国は通常二力国多くとも数力国と限定され、しかも通常は仮想敵国を想定する点にある。他方、集団安全保障は国際社会という全体を想定し、「一国が全体のために、全体が一国のために行動する」ことが求められる。<篠原初枝『国際連盟―世界平和への夢と挫折』2010 中公新書 Kindle版 位置636/3647>
という理念であるが、それが現実に機能するためには、国際的に指導的な力を持つ有力国がすべて参加している必要がある。ところがさまざまな歴史的制約のため、アメリカ合衆国は一貫して加盟せず、ドイツ・ソ連は当初は加盟せず、日本・ドイツは途中で脱退し、ソ連は追放されるということになり、集団安全保障を機能させる状況はついに現れなかった。そのため、1945年6月に国際連合が成立(10月発足)したのに伴い、国際連盟は1946年4月にわずか26年でその役割を終え、解散した(国際連合成立後であることに注意。国際連盟が国際連合に移行したのではない)。
注意 国際連盟の評価 国際連盟は、第二次世界大戦を防止できなかったという点では失敗であり、それ自体に不備や欠陥があったことも事実であるが、実際には紛争の解決に寄与しているケースもあり、また軍縮などの平和の問題、アヘンの取り締まりや伝染病の予防などの保健衛生問題、難民問題や婦女子の労働問題などの課題にも取り組んでおり、それらの多くは現在の国際連合の活動に継承されている。日本の世界史教育ではともすれば国際連盟の欠点だけを強調する嫌いがあるが、その国際連盟を機能不全に陥らせた要因の一つを作ったのが日本だったことと、同時に忘れられがちであるが、新渡戸稲造他の日本人外交官が国際連盟で重要な働きをしていたことを知る必要があろう。<篠原初枝『前掲書』は、特に日本との関わりを知る上で必読。>

資料 国際連盟規約

 1919年6月28日、ヴェルサイユ条約の第1編として国際連盟規約が講和会議総会で調印された。以下はその要点の抜粋。
  • 前文 締約国は戦争に訴えないという義務を受諾し、各国間の開かれた公明正大な関係を定め、各国政府間の行為を律する現実の規準として国際法の原則を確立し、組織された人々の間の相互の交渉において正義を保つとともにいっさいの条約上の義務を尊重することにより、国際協力を促進し各国間の平和と安全を達成することを目的として、この国際連盟規約に合意する。
  • 第8条 連盟加盟国は、平和を維持するためには、国の安全と、国際的な義務遂行のための共同行動実施とに支障がない最低限度まで、その軍備を縮小する必要があることを承認する。
  • 第10条 連盟国は、連盟各国の領土保全および現在の政治的独立を尊重し、かつ外部の侵略に対しこれを擁護することを約す。右侵略の場合またはその脅威もしくは危険ある場合においては、連盟理事会は、本条の義務を履行すべき手段を具申すべし。
  • 第11条 戦争または戦争の脅威は、連盟加盟国のいずれかに直接の影響がおよぶか否かを問わず、すべての連盟全体の利害関係事項であることをここに声明する。連盟は、国際的平和を擁護するために適当かつ有効と認められる措置をとる。そのような事態の発生に際し、事務総長は、いずれかの連盟加盟国の請求に基づき、直ちに連盟理事会の会議を招集する。
  • 第16条 ・・・戦争に訴えた連盟加盟国は、当然他のすべての連盟加盟国に対して戦争行為を行ったものとみなされる。他のすべての連盟加盟国は、その国とのいっさいの通商上または金融上の関係の断絶、自国民とその違約国国民との間のいっさいの交通の禁止、・・・をただちに行う。
  • 第22条 先の戦争の結果これまでの支配国の統治を離れた植民地や領土で、近代世界の苛烈な条件のもとでまだ自立しえない人々が居住しているところに対しては、そのような人々の福祉と発達をはかることが文明の神聖なる使命であり、その使命遂行の保証を本規約中に包含するとの原則が適用されなければならない。この原則を実現する最善の方法は、そのような人々に対する後見の任務を、資源や経験あるいは地理的位置によってその責任を引き受けるのにもっとも適し、かつそれを進んで受諾する先進国に委任し、連盟に代わる受任国としてその国に後見の任務を遂行させることである。
(説明)第8条で、国際連盟加盟国は軍縮に努めなければならないことが規定されている。この規定に基づいて国際連盟は1932年からジュネーヴ一般軍縮会議を開催するが、ナチス=ドイツは、ドイツだけが軍備を制限されているのはこの規定に反するとして、国際連盟脱退の口実とする。
 第10条は「領土保全と政治的独立」に関する規定であり、アメリカの保守派が連盟加盟に最も強く反対した部分である。かれらは領土保全を規定したこの条文によってアメリカとは直接利害関係の無い地域で起こった戦争にもかかわり自国の軍隊を送らなければならなくなることして反対した。進歩派の中にも帝国主義に加担することになるとして反対する者もいた。
 第11条は新しい国際平和実現のための集団安全保障の規定であり、国際連盟規約の最も重要な部分であった。第16条は戦争を起こした国、つまり違約国に対する経済制裁の規定である。軍事的制裁は規定されていなかった。
 第22条は委任統治に関する規定。民族自決という理念は東欧諸民族に適用されただけで、アジアやアフリカ、太平洋地域の人々は「自立できない人々」として「先進国」によって後見されるべきであるという。この制度のもとで植民地は実質的に拡大されていった。<歴史学研究会『世界史史料』10 岩波書店 p.148/第10条については篠原初枝『国際連盟』2008 中公文庫 参照>

国際連盟の問題点

  1. 有力国の不参加。アメリカ合衆国ドイツロシア(22年よりソ連)の不参加。
  2. 侵略に対する制裁のための軍事力を持たなかったため、紛争の解決が困難であった。16条では経済制裁を行える規定であったが、実効力は少なかった。
  3. 総会は全会一致で決議する原則であったので、迅速かつ有効な決議を行うことが困難だった。(国際連合の総会は多数決採決となった)

常任理事国

 国際連盟で総会に次ぐ機関である理事会には、1920年発足時にはイギリス・フランス・イタリア・日本の4カ国が常任理事国となり、それと非常任理事国4国から構成された。後に加盟したドイツは、加盟期間中、常任理事国に加わった。なお、非常任理事国はその後、1823年に6ヵ国、1926年に9カ国、最終的には11ヵ国に増加した。

国際連盟の働き

 設立当初から国際連盟は、集団安全保障の理念に基づき、国境紛争の解決などにあたり、戦後の国際協調の流れの中で役割を果たした。国際連盟が取り組んだ問題には、ダンツィヒ問題フィウメ問題イズミル問題などであり、特にフランスなどのルール占領は最大の問題であった。それらは主としてヨーロッパの問題であったが、1925年のロカルノ条約の締結によって危機を避け、さらに国際協調の最大の実績としてアメリカ合衆国も加えた1928年の「不戦条約」および「国際紛争平和的処理に関する一般議定書」の採択などの平和政策を推進できたことは成果とすることがことが出来る。また軍縮は国際連盟の掲げた第一の課題だったので、アメリカ合衆国が主導したワシントン会議などの海軍軍縮会議とは別に、国際連盟の場で1932年からジュネーヴ軍縮会議も開催された。しかし、世界恐慌後の各国はそれぞれ軍備増強に走り出していたため、成果を収めることはできなかった。

世界恐慌と国際連盟

 国際連盟中心の国際協調の気運に冷水を浴びせたのが1929年の世界恐慌であった。アメリカ・イギリス・フランスなどはブロック経済の構築、ドイツ・イタリア・日本が生存圏の拡大へと走る中、国際連盟も無策であったわけではなく、ドイツ賠償問題の最終的決着を図ろうとジュネーヴで会議を開催したがアメリカの協力が得られず失敗、さらに1933年には国際連盟の主催でロンドン世界経済会議を開催し、アメリカも参加して世界恐慌から国際的な脱却の方向を探ろうとしたが、これもアメリカとイギリス・フランスの利害の対立からまとまらず、ついに武力による解決へと傾斜してしまった。

有力諸国の加盟と脱退

 このように、国際連盟はアメリカ合衆国の不参加に加え、有力な各国が脱退したり、除名されたため、その本来の使命である集団安全保障の理念を全面的に否定されることとなり、その無力化を招き、第二次世界大戦の勃発を防ぐことができなかった。

日本と国際連盟

 日本はパリ講和会議において、ヴェルサイユ条約を認め、国際連盟に加盟する条件として「二十一カ条の要求」以来の山東省権益の継承を条件とした。ウィルソンは日本の主張を認めることは、自らがかかげた「十四カ条の原則」の民族自決原則に反し、中国の反対を受けることは判っていたが、日本を国際連盟に加盟させることの方を重視して、その要求をのんだ。こうして日本は国際連盟に加盟し、しかも常任理事国という責任ある立場に立つことになった。「・・・(国際)連盟の理事国となったわが国は、そのことに喜ぶあまり、客船を一隻チャーターしてジュネーヴに大代表団を送りこんだのだった。」<明石康『国際連合 軌跡と展望』2006 岩波新書 p.209>という。
 1920年から26年、国際連盟事務局次長を務めたのが、『武士道』で有名な、新渡戸稲造だった。また次期の事務局次長も日本から杉村陽太郎が就任している。国際連盟は戦前期日本の重要な外交活動の舞台であったが、1931年の満州事変を期に孤立を深め、33年に脱退することとなる。
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書籍案内

篠原初枝
『国際連盟―世界平和への夢と挫折』
2010 中公新書

国際連盟を再評価する一冊。特に日本との関わりを知る上で、日本史学習者もぜひ読んでほしい。

木畑洋一
『国際体制の展開』
世界史リブレット54
1998 山川出版社

ウェストファリア条約から国際連盟・国際連合までを概観し、わかりやすい。