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三帝同盟

1873年締結のドイツ・オーストリア・ロシアの三国による対フランス同盟。バルカン問題でのオーストリア・ロシアの対立から1879年に消滅。1881年に新三帝同盟を結成。

 普仏戦争の結果、アルザス・ロレーヌ(ドイツではエルザス・ロートリンゲン)地方がドイツ領とされたことで、フランスの対ドイツ復讐熱は強くなっていた。ドイツ帝国ビスマルクはそのようなフランスがナポレオン時代のようなヨーロッパの脅威とならないよう封じ込めておくこととに最大の外交目標を置いた。それによってドイツ帝国の安全保障をはかろうとするビスマルク外交の具体化の最初がロシア・オーストリアとの三帝同盟であった。また、第三共和政の自由主義や共和政思想が東方に浸透しないように、君主政を維持することを意図した。ロシアとオーストリアはいずれもバルカンへの進出する野心を抱いていたが、この時点ではそれぞれがドイツと友好関係をもっていることが有利だと考えた。

ドイツ・オーストリア・ロシアで結成

 1872年9月、ベルリンでドイツ帝国のヴィルヘルム1世オーストリア=ハンガリー帝国フランツ=ヨーゼフ1世、ロシア帝国のアレクサンドル2世の三皇帝が会談、基本的な合意が成立し、その後、各国間の協議を経て1873年10月に最終的に三帝同盟(League of the Three Emperors)として調印された。
 その内容は、バルカン半島における国境線の維持と問題の平和的解決、同盟国以外からの攻撃に対する共同対処、革命運動を抑止する、などであり、本質は三国の皇帝専制政治を共同で維持しようという理念を柱とする友好同盟であった。フランスを仮想敵国とする秘密軍事同盟ではないが、ビスマルクにとってはフランス包囲網として意義をそこに求めていた。しかし、オーストリアとロシアはビスマルクの意図とは別に抜き差しならない対立をかかえていた。

ロシアの離脱

 按じられていたようにバルカン半島でのパン=スラヴ主義とパン=ゲルマン主義の対立といういわゆるバルカン問題が深刻になるとロシアとオーストリア=ハンガリー帝国の関係が悪化した。1877年の露土戦争に勝利したロシアがバルカン半島への進出を図ると、バルカン進出を狙うオーストリアと、ロシアの東地中海進出を警戒するイギリスは強く反発した。そこでビルマルクが調停に乗りだし、1878年のベルリン会議が開催された。ビスマルクの仲裁は受け入れられたものの、ロシアはオーストリアにドイツが肩入れしたと捉えたロシアは、両国に対する不信を強め、翌1879年に三帝同盟から離脱し、効力を失った。
 ビスマルクは残るオーストリアとの提携を強める必要から、同じ1879年中に独墺同盟を締結し、ロシアがフランスに接近する恐れに備えた。

新三帝同盟/三帝協商

1881年に三帝同盟を復活。しかし、ロシア・オーストリアの対立から、1887年に消滅。

 ロシア、オーストリア=ハンガリーの対立は、ビスマルクの安全保障構想上、危険なものであったので、ビスマルクはその復活に努力し、両国への働きかけを強めた。それによって1881年、三帝同盟は復活することとなった。これは新しい内容を含んでいたので、新三帝同盟、または三帝協商(Alliance of the Three Emperors)とも言われる。
 内容は、締約国が締約国以外と交戦する場合には他の二国は中立を守るという軍事同盟であった。また議定書として、ボスフォラス=ダーダネルス海峡閉鎖の原則の維持、バルカンにおけるロシアとオーストリアの利益範囲の確定を含み、両国の対立を避ける工夫がされていた。

新三帝同盟の消滅

 ビスマルクは新三帝同盟を結成する一方で、1882年には独墺同盟にイタリアを加えて三国同盟を成立させた。こうして、新三帝同盟と三国同盟という二つの同盟関係で万全の安全保障を築いたかにみえたが、それぞれには潜在的な敵対関係を含んでおり、無理があった。
 まず、バルカンでのロシアとオーストリアの対立という火種は消すことができず、1885年、ブルガリア問題で再び両国が激しく対立し、1887年にオーストリアが同盟の延長を拒否したため、新三帝同盟は消滅した。なおもロシアとの提携に熱意を燃やすビルマルクは、オーストリアに隠れて、同じ1887年中に再保障条約を締結した。

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