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趙紫陽

1987年、胡耀邦失脚後に中国共産党総書記に就任。大胆な政治・経済の改革に取り組んだが、1989年、第2次天安門事件が起きると、学生の民主化運動に理解を示したことを非難され、鄧小平によって辞任に追いこまれた。

胡耀邦と趙紫陽

胡耀邦(左)と趙紫陽(右)

 ちょうしよう 1919-2005 中華人民共和国で、文化大革命終了後の1970~80年代、鄧小平に協力し、その改革開放政策の実際面を胡耀邦ともに支えた中国共産党指導者。1938年に入党し抗日戦で戦う。戦後広東省党第一書記となったが文化大革命で失脚した。71年に復帰して四川省などの地方幹部として実績を上げ、77年に二度目の復活を遂げた鄧小平に起用され、1980年に国務院総理(首相)となり、1982年に総書記となった胡耀邦と二人三脚で鄧小平を支えた。改革開放政策を実務的な面で支えていたが、学生や知識人が、経済活動の自由だけではなく、政治活動の自由、複数政党制などを要求するようになり、改革が政治の民主化にも及ぶ動きが出はじめると、政治改革の必要も意識するようになった。しかし、同様な改革志向をもっていた胡耀邦が、鄧小平や党長老と衝突し、1987年1月に辞任させられると、鄧小平の意向により趙紫陽は総書記となって党務を取り仕切ることになった。

社会主義初級段階論

 1987年11月、総書記に就任した趙紫陽は、改革派のブレーンとともに政治改革に取り組み、第13回党大会で政治報告を行い、国家と党の分離、政治の公開化、プロセスの民主化などを大胆に提起した。この改革プランはソ連で進行していた、ゴルバチョフグラスノスチペレストロイカに影響と受けたものだった。
 趙紫陽はさらに中国は社会主義社会ではあるが、経済は立ち遅れ、農村も自給自足経済にとどまっており、貧困と停滞が続いていると規定し、中国が目指すのは社会主義の初級段階であると提起した。この社会主義初級段階論に基づき、近代的工業への脱皮をはかるため、不動産売買、私営企業の株式制度などを認め、海外資本の導入、技術交流を積極的に進めることを提案した。趙紫陽は、中国での社会主義実現は21世紀中頃まで先延ばしし、政治的にも経済的にも、まず西欧型の資本主義社会を目指そう、というものであり、もし生きていれば「毛沢東もビックリ!」な改革プランであった。

改革の挫折

 この趙紫陽の「限りなく資本主義に近づけよう」という試みは、多くの人々の経済インセンティブ(動機づけ)を刺激し、従来の計画経済・司令統制経済に比べてはるかに大きな経済効果をもたらした。しかし急激な変化はまた大きなひずみを生み、モラル無き拝金主義(当時は「向銭看」現象といわれた)と、権力と癒着したブローカーの横行などの弊害が一気に現れた。特にそれまで抑えられていた市場価格の自由化が認められたことから、急速な物価の上昇が庶民生活を襲った。インフレは趙紫陽自身も懸念し、改革に慎重姿勢に転じたが、今度も鄧小平は改革推進を主張し、価格の自由化を断行した。
 その結果、88年~89年の物価上昇率は17.8%となり、社会混乱、経済混乱が引き起こされた。しかしその批判は表に立っていた趙紫陽に向けられ、裏にいた鄧小平に及ぶことは無かった。

第2次天安門事件

 民主化要求は次第に共産党一党支配を公然と批判する論調も現れた。五・四運動70周年となる1989年、民主運動の指導者方励之は鄧小平に公開状を送り、1979年に投獄された魏京生らの釈放を求めて人権擁護署名運動を展開した。政治的実権を握る鄧小平は「安定が第一」として政権批判を許さなかったが、総書記趙紫陽は高まる民主化要請に応えようと苦慮し、次第に両者の溝が深くなっていった。
 1989年6月、前総書記胡耀邦が突然病死すると、それを悼む市民学生が北京の天安門に集まり、集会は民主化を要求し、政府を批判する大規模なデモやハンガーストライキに転換した。その勢いは急激に増大し、天安門広場は学生と市民で埋め尽くされ、民主化を求める声がますます強くなった。党総書記趙紫陽は学生と話し合うことで事態を収拾できると楽観していたが、政権内部では、国務院総理(首相)の李鵬らが強硬に弾圧することを主張し、戒厳令発布を意図した。趙紫陽はそれに反対したが、趙紫陽が北朝鮮を公式訪問して北京を留守にしている間に、李鵬は鄧小平の同意をとりつけ、『人民日報』で学生らの行動を反政府を目論む「動乱」であると断定したことを公表した。帰国した趙紫陽はその取消を求めたが、鄧小平・李鵬は応じなかった。
 さらに5月15日、ソ連のゴルバチョフが訪中、鄧小平・趙紫陽と相次いで会談した。趙紫陽はゴルバチョフとの会談で、なぜ国家機関の正式代表ではない鄧小平が会談を行うのか、と言うことに関して、中国共産党はすべて鄧小平の決裁に従うことになっていると答えた。このことは政権内部で国家機密を外国首脳に漏洩したとして、趙紫陽に対する非難がおこり、その失脚の口実の一つとされた。
 なおも天安門広場を占拠する学生・市民は政府の強硬姿勢に激昂、鄧小平打倒、共産党打倒を叫ぶものも現れた。鄧小平・李鵬と対立して孤立した趙紫陽は5月18日、自ら天安門に赴き、学生に話しかけ、暴動の沈静化に努めたが、もはやその動きを止めることができず、「来るのが遅すぎた」と言い残して帰った。その後、趙紫陽の姿は政治舞台からは消えた。
 5月20日、政府はついに建国以来初めてである戒厳令をしき、人民解放軍を戒厳部隊として動員した。軍も市民も中国人同士で殺し合うことに躊躇し、しばらくにらみあいがつづいたが、ついに1989年6月4日、戦車部隊を先頭に鎮圧を開始、抵抗する学生・市民に発砲し、多数の犠牲者を出し、天安門広場を制圧した。これが第2次天安門事件(中国では六四という)である。この事件で趙紫陽は党内に分裂を持ち込み、暴動の沈静化に失敗したとされ、その責任を取って辞任に追いこまれた。趙紫陽は最後まで自らに誤りがあったことを認めなかったが、北京市内の一角に軟禁され、2005年に死去した。<天児慧『中華人民共和国史新版』2013 岩波新書>

NewS 趙紫陽氏の家、最後の別れ

 2021年10月7日、北京で趙紫陽元中国共産党総書記が晩年を過ごした家で、家族が知人約30人を招いて最後のお別れの会を開いた。趙紫陽は天安門事件(六四)で失脚した後、05年に亡くなるまでこの家に軟禁されていた。その死後、娘夫妻が住んでいたが、党指導部のために手配した建物を遺族が使い続けることは認められないとして党から退去を命じられ、9月末にはすでに退去していた。空き家になった四合院造り(北京独特の四棟で中庭を囲む形の住居)に集まり、別れを惜しみ、写真を撮ったり、庭の柿の木の枝を分け合ったりした。党がこの建物をどうするかはまだ家族にも知らされていない。趙紫陽の部下だった元党幹部は、改革開放を志した私たちにとっても自由に意見を交わせる貴重な場が無くなるのは無念だと話した。<朝日新聞 2021/10/8朝刊 記事>
 中国共産党が徹底して趙紫陽の記憶を消し去ろうとしていることの表れであろう。
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天児慧
『中華人民共和国史新版』
2013 岩波新書

高原明生・前田宏子
『開発主義の時代へ』
シリーズ中国近現代史⑤
2014 岩波新書