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八路軍

第2次国共合作によって紅軍が国民革命軍に組み込まれて編制された軍。中華人民共和国建国後に人民解放軍となる。

 1937年の第二次国共合作によって、中国共産党軍である紅軍の約3万は、国民党の国民革命軍に組み込まれることとなった(8月22日)。これが正式名称「国民革命軍第八路軍(後に第十八集団軍)」、通称を八路軍といい、以後抗日戦の主力を担っていく。総指揮は紅軍以来の朱徳があたった。また10月には、ゲリラ戦を展開していた紅軍約1万が新四軍(しんよんぐん)として国民革命軍に改編された。八路軍・新四軍は紅軍以来の三大規律・六項注意という厳しい規律の下で戦い、日本軍と戦った。

日本軍との戦い

 日中戦争が展開されるなか、八路軍・新四軍は華中・華南で解放区を建設し、民衆をゲリラ戦に組織、日本軍にとって強敵となった。日本軍に頑強に抵抗する八路軍・新四軍は民衆の支持を受け、40年頃には、八路軍40万、新四軍10万の兵力に増強された。
 1940年夏から秋にかけて、八路軍は約20万の兵力を動員して、華北の山西省から河北省にかけての日本軍に攻勢をかけ、鉄道・通信線に大きな打撃を与えた。共産党はこの作戦を「百団大戦」と名付けて大きな勝利を得たとしている。しかしその装備は貧弱で、専らゲリラ戦術による戦いであったことが明かで日本軍に約5千の死傷者が出たが、八路軍側の犠牲も大きく、2万にも上った。日本軍にとっても犠牲が大きかったので衝撃をうけ、華北に於ける軍事行動を強化して報復戦を行い、抗日根拠地に対する毒ガス兵器の使用など「三光作戦」と言われる徹底した掃討戦を行った。それ以後は日本軍との戦闘は膠着し、日常化していった。

国共合作の破綻

 抗日民族統一戦線の方針のもとで八路軍も国民革命軍の一部としてその指揮下に入っていたが、実際にはそれぞれ別個の軍事行動を行うことが多く、また共産党軍は主に延安を拠点に華北で戦い、国民党軍は重慶を中心として華南で戦うという棲み分けが行われていた。しかし、華北に於ける八路軍の勝利が続くと、蔣介石・国民党は警戒心を強め、次第に敵視するようになった。1941年1月には国民革命軍が新四軍を攻撃し、壊滅させるという事実上の内戦(皖南事変)が起こっている。しかし、共産党は国民党の挑発に乗らず、基本的には国共合作は維持された。その中で、むしろ抗日戦の主役として八路軍が主導権を握っていく。

人民解放軍へ

 1945年8月、太平洋方面での日本軍の敗北が続き、ついに日本軍が連合軍に無条件降伏すると、中華民国も連合軍に加わっていたので、中国の日本軍も敗北となり、各地で武装解除された。日中戦争勝利後の国家再建に向けて、共産党と国民党は当初は協力しあう姿勢を見せ、毛沢東と蔣介石が会談、双十協定で連携に合意したが、結局は意見は一致せず国共内戦(第2次)の勃発となった。そのため八路軍は、国民革命軍と分離されることとなり、それを機に「人民解放軍」と改称し、それが現在の中国軍となっている。

参考 『僕は八路軍の少年兵だった』

 満州国が崩壊、中国の日本軍も各地で降伏し、武装解除の上、中国軍に投降した。指揮官クラスは戦犯として軍事裁判にかけられて死刑になった者もあったが、大部分の兵士は捕虜収容所を経て日本に帰還した。しかし、満州には関東軍以外にも多くの開拓団の民間人や満蒙開拓青少年義勇隊に志願した多くの若者がいた。彼らの中には、敗走する過程で八路軍に加わり、その後も国民政府軍との戦いに従軍して兵士となった人もいた。その一人、山口盈文(みつふみ)さんは『僕は八路軍の少年兵だった』という著書で、驚くべき体験を綴っている。日本軍の不敗を信じていた15歳の少年の体験には苛酷なものであったが、山口さんは実直に見たとおりに書いている。八路軍の体験だけでなく、日本の満蒙開拓、満州国の崩壊、国共内戦、中国共産党、中華人民共和国の建国、朝鮮戦争、日中貿易、そして文化大革命などを直接見て、そこに身を置いた人の証言として、ぜひ読んでほしい。
  • 満蒙開拓少年義勇兵に志願 山口さんは1929年、岐阜県の農家に生まれ、満蒙開拓青少年義勇軍に志願し、1944年5月、満州の東部の勃利(ポリー)に渡った。満蒙の開拓(3年頑張れば土地が与えられると言われていた)に希望をもって決意したのだった。既に日本の敗色は濃かったが15歳の少年は知る由もなかった。現実は開拓の困難、義勇兵内の上下関係、凄惨ないじめなど、希望を覆す体験が次々と起こり後悔の念が強くなっていった。1945年8月9日、ソ連軍の侵攻に驚いたが、関東軍幹部はすでに察知していて国境は実質無防備に近かった。そこから悲惨な逃避行が始まる。
  • 八路軍に加わる 幾つかの捕虜収容所での理不尽な扱いに怒りを感じ、脱走を企て、満州の原野をさまよううち、1946年、北上してきた八路軍に捕らえられる。八路(パーロ)軍が何か知らなかったが、捕虜として行動を共にするうちに仕事を与えられ、持ち前の度胸と器用さで重宝されるうち、中国語も話せるようになり、公光哲という名前を貰い、兵士になっていた。三大規律・八項注意を教えられ、毛沢東思想の学習もし、人民裁判も体験、そして東北地方の国民政府軍との戦いに参加して、偶然だったが手柄も立てるようになった。八路軍が国民政府軍と戦っただけでなく、地主の土地を解放し、人民裁判を行い、反革命分子と判定すれば処刑するなど封建制度を一掃する「革命」を進めていったことが生々しく述べられている。
  • 国共内戦と朝鮮戦争 その頃は帰国の夢も捨て八路軍と行動を共にすることを決意、砲兵として技術を身につけ、中華人民共和国建国後は広東・海南島を制圧する南下作戦に従事した。さらに朝鮮戦争が勃発すると中国人民志願兵として朝鮮の戦場にも加わった。その後正式に共産党に入党、天津や北京で日本の情報を中国語に翻訳する任務や日本からの要人(国交回復前なので主に経済界の人)の通訳などにあたった。その後内蒙古自治区への転勤など曲折を経て、ようやく帰国が許され、1956(昭和31)年に興安丸で舞鶴港に着いた。
  • 日中貿易と文化大革命 その後は日本の貿易商社に職を得て、日中貿易に携わり、北京に駐在して折衝に当たったが、1965年ごろから突如紅衛兵が暴れ回る文化大革命となって混乱が始まった。この間の筆致は、権力をにぎってからの中国共産党が次第に形式的になり、尊大な言動や政治権力の闘争に明け暮れるようになったことに批判的であり、中国の未来に対しても厳しい見方をしている。1994年にこの本が発表されているが、2000年代の中国の変質を考える上でも参考になろう。
<山口盈文『僕は八路軍の少年兵だった』1994 草思社>