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連ソ・容共・扶助工農/新三民主義

孫文が1924年の第1次国共合作で掲げた三大政策。中国革命を進めるにあたり、ソ連との連帯、共産党との一体化、労働者・農民の運動を助けることが必要とした。1927年の上海クーデタで国共が分裂したため消滅した。

 孫文中国国民党一全大会(広州)で掲げた、ソ連と連帯し、共産主義を容認し、労働者・農民の戦いを助けようという、第1次国共合作の三大政策。孫文は必ずしも社会主義やマルクス主義を採用したわけではなく、自身の理念としては三民主義を堅持していた。また、軍政・訓政・憲政という独自の三段階革命論を持っており、ボリシェヴィキ的な暴力革命や、一気に議会政治を実現する考えはなかったが、自らが指導した辛亥革命において結局は袁世凱の軍閥権力に敗れてしまったことを反省し、革命には武力が必要なこと、必要な武力を得るには、経済的基盤のない国民党のみでは不可能であると考え、ロシア革命の成功に倣った革命軍の創設を目指し、その手本として、また実際的な資金、武器の援助を期待してソ連および共産党と手を結ぶこと踏み切った。

孫文のソ連への接近

 1919年、五・四運動の盛り上がりの後に中国国民党を組織した孫文は、ロシア革命の影響を受け、急速にソヴィエト政権に接近した。契機はヴェルサイユ条約で欧米列強が中国の主張を無視したのに対し、ソヴィエト政権がカラハン宣言を出して旧ロシア帝国の中国での利権の放棄を宣言したことだった。その後、ソ連は盛んに孫文に働きかけ、ソ連の正式代表ヨッフェとの間で1923年1月26日、「孫文=ヨッフェ共同宣言」を出し、ソ連との連携、中国共産党との協力などを約束した。その後、コミンテルン代表と孫文、中国共産党の協議が深められ、孫文はソ連の援助を受けるとともに共産党員を国民党に受け入れる国民党の改組に同意した。

第一次国共合作の成立

 孫文の方針は1924年1月、広州で開催された中国国民党一全大会で承認され、この大会で「連ソ・容共・扶助工農」の三大政策が新三民主義として打ち出されることによって第1次国共合作が成立した、とされている。
 「連ソ」はソ連(具体的にはソ連共産党を中心としたコミンテルン)との連繋をとること、「容共」は中国共産党を容認して共産党員が党籍を持ったまま国民党に加わることを認めること、「扶助工農」は労働者・農民を支援することを意味する。この決定に基づき、共産党員が党籍を持ったまま、国民党員となることが認められた。この第1次国共合作が成立したことによって、孫文は北京の軍閥政府と、それと結んでいる帝国主義諸国との戦いを進め、中国の真の独立と統一を目指すこととなった。しかし、翌年3月、孫文は「革命いまだならず」との遺書で、国共合作の継続を強く言い残した上で死去した。

参考 「連ソ・容共・扶助工農」の理解

 一般に「連ソ・容共・扶助工農(工農扶助とも言う)」は、第一次国共合作で、孫文自身が提唱したとされている。現行の高校教科書でも、山川詳説世界史では“(第一次国共合作で)孫文はまた、「連ソ・容共・扶助工農」を掲げて、軍閥打倒・帝国主義打倒の路線を打ち出した”とされ、帝国書院世界史Bでは注で“1924年にひらかれた国民党第1回大会で「連ソ・容共・扶助工農」の方針が決定された”となっている。しかし、「連ソ・容共」は当初から唱えられていたものの、実際にこれが三大政策として一体として掲げたのは後のことで、「扶助工農」はどうやら北伐が推進される段階で、共産党員が加えたスローガンであったようだ。
(引用)(北伐の)快進撃をささえたのは、なによりもまず政治思想を身につけた国民革命軍の将兵の奮闘である。とりわけ苦心が多かったのは、軍の規律のもとで共産主義の宣伝をしなければならなかった共産党員の士官兵士だった。かれらはその困難を解決するために、孫文の思想のヴェールを被せるという妙手をもちいるのだが、その最高傑作が「連ソ・連共・労農援助」を「三大政策」というスローガンである。三つのうち、連ソは字義どおりだが、連共はもと容共だったものが共産党の拡大とともに言い換えられたものである。その二つに、合作にあたり強調された労農援助を付け加えて、三大政策と言いなしたものである。のちに、三大政策を含むにいたった三民主義を新三民主義と呼ぶようになるが、三大政策をあたかも孫文存命中に定められたものであるかのように扱うのなら、歴史の複雑性を無視することになるだろう。<狭間直樹『自立へ向かうアジア』世界の歴史27 1999 中央公論新社 p.90-91>
 現在は、従来の中国共産党の公式的な歴史記述に対して、客観的な見直しが進んでいるようだ。
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狭間直樹
『自立に向かうアジア』
世界の歴史27
初刊1999
再刊2009 中公文庫