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ヨッフェ/孫文=ヨッフェ共同宣言

ヨッフェはソ連共産党員で、中国に派遣され、孫文に共産党との合作を求めた。1923年、孫文=ヨッフェ共同宣言で合意を表明、それによって1924年、第1次国共合作が成立した。

 ヨッフェ 1883-1927 はソ連の外交官。クリミアでユダヤ系商人の家に生まれ、1902年にロシア社会民主労働党に加入し、ベルリンやチューリヒで医学、法学を学んだ。1905年の第一次ロシア革命に参加して、弾圧を避けてウィーンに亡命。帰国後逮捕されてシベリア流刑になるなど、革命家として歩む。1917年、第二次ロシア革命勃発によって解放され、ボリシェヴィキとして活動、豊富な外国生活を生かし、ソヴィエト政権の外務人民委員(外務大臣にあたる)としてブレスト=リトフスク条約の交渉に当たった。交渉はトロツキーに継承されて1918年3月、ドイツとの単独講和が成立した。
 第一次世界大戦終結後は、緊迫するアジア情勢に対応するため、ソヴィエト政権は世界革命の一翼とすることをめざし、ヨッフェを中国に派遣した。1922年、ヨッフェはソヴィエト政権の全権代表として中国に派遣され、当時北京の軍閥政権と戦っていた広州の孫文との接触を重ね、翌年に合同宣言を発表して、ソ連の国民党支援を明らかにし、それによって1924年の第一次国共合作の実現への道筋を作った。その後、駐日大使となって日ソ交渉にあたったが、1923年に病気で帰国した。1924年、レーニンの死によってソ連はスターリンとトロツキーの抗争が激化、ヨッフェはトロツキー派と見なされ、1926年にトロツキーがソ連政治局から排除されて失脚したことで立場を失い、彼も党を除名され、翌年自殺した。ボリシェヴィキ革命、コミンテルン、中国革命に大きな功績のあった人物であったが、スターリン独裁体制の犠牲になったと言える。

孫文=ヨッフェ共同宣言

 1922年夏、ソヴィエト政権の全権代表として中国に渡ったヨッフェは、その前年に発足した中国共産党を指導し、さらに中国国民党孫文と接触、翌1923年1月26日に「孫文=ヨッフェ共同宣言」をまとめた。
 この共同宣言で孫文はカラハン宣言の完全実施を求め、ヨッフェは中国の独立と統一のために援助を確約した。孫文は同時に中国にはソヴィエト体制をそのまま移入することはできないと主張し、ヨッフェもそれを認め、民族独立と統一のための共産党との協力を求めた。また孫文は、従来の中国国民党が孫文の個人的支配が強い組織であったのを改め、党の綱領・規約を初めて公表し、党運営も委員会による合議制とするなど、ロシア共産党にならった民主的な集中制を実現することを約した。
 この宣言に従い、孫文は翌1924年1月、国民党の改組(共産党員の加入を認めること)とともに「連ソ・容共・扶助工農」を打ち出し、第1次国共合作が成立した。
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