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宣統帝/溥儀

宣統帝は清朝最後の皇帝。名前は溥儀。辛亥革命により1912年に退位。しばらく紫禁城に幽閉された後に、1932年、日本の関東軍が満州国を建国した際に執政として迎えられ、34年に皇帝となる。1945年、満州国崩壊によって退位、ソ連に抑留された後、中国で戦犯とされ収容所生活を送った。

 清朝の最後の皇帝(中国)、宣統帝としては在位1908~1912年。清朝の皇帝の家系を継承し姓は愛新覚羅(あいしんかくら。満州語ではアイシンギョロ)で、名は溥儀(ふぎ)といった。光緒帝の弟の醇親王載灃(さいほう)の長男。

清朝最後の皇帝

 清の動揺が進む中、1908年、父帝と西太后が相次いでなくなり、わずか2歳で即位した。父の載灃が摂政として実際の政治を取り仕切った。しかし、清朝政府は義和団事件、日清戦争の賠償金支払いによる財政危機が続いており、さらに日露戦争でロシアが敗北したことから、中国でも反清、立憲運動が盛んになりその統治は大きくゆらぎ始めた。1911年、清朝政府が四国借款団からの借款をもとに鉄道国有化政策を打ち出したことから、9月に四川暴動、10月に革命派の武昌蜂起が起こり、ついに辛亥革命(第一革命)となった。
 翌1912年1月1日孫文は南京で臨時大総統となり、中華民国の成立を宣言した。しかし、政権を十分掌握できておらず、清朝末期の実権を握っていた袁世凱は孫文と取り引きして、武力によって幼帝の宣統帝を脅して退位を迫った。皇帝側は皇室の優遇、満州人などの漢人との平等な待遇などを条件にして同1912年2月12日、退位した。これによって清朝は277年目(清の前身後金を加えれば12代297年)で滅亡した。これは同時に、始皇帝以来続いた中国の皇帝政治の終わりでもあった。中国の歴代王朝では皇帝は死後に「廟号」が贈られるが、宣統帝は生きたまま退位したために、廟号がない。

退位後の紫禁城での生活

 1912年2月、退位したとき6歳だった溥儀は袁世凱政府との取引によって北京の紫禁城にとどまり、皇帝と同じような待遇を受けてすごした。しかし、実際には城外に出ることは許されず、幽閉同様の生活であった。その後、世界と中国の情勢には激変が続き、1914年には第一次世界大戦が勃発、翌年に日本は二十一カ条要求を突きつけ、袁世凱政権は日本の山東利権を承認しながら皇帝即位を狙う事態となった。袁世凱の即位はその死去によって失敗したが、続いて1917年には張勲という人物が軍閥政権の混乱に乗じて、帝政復活を狙い、溥儀を担ぎ出して皇帝に復位させ(復辟という)ようとしたが、軍閥の段祺瑞によって阻止されて失敗するという事件も起こった。
 1919年、大戦が終わったがパリ講和会議で日本の権益が維持されたことに民衆の反発が強まり、五・四運動が起こった。孫文は広東政府を成立させ中国国民党を組織したが、北京は軍閥政府が実権を握り中国の分裂状態はさらに混迷を深めた。この間、紫禁城に幽閉されたまま、少年期から青年期に入った溥儀にも大きな変化が現れ、1919年からイギリス人ジョンストンを英語教師として迎えて世界に目を向けるようになり、1922年には結婚した。
 軍閥は1922年に奉天派(張作霖)と直隷派(曹錕)が対立(第一次奉直戦争)、直隷派が権力をにぎったが、1924年に直隷派(曹錕に代わった呉佩孚)に対して奉天派が再び決起(第二次奉直戦争)となった。そのとき、直隷派の馮玉祥が突如奉天派に寝返って北京を占領、この時馮玉祥は溥儀に対し紫禁城からの退出を命じた。溥儀は一時日本公使館に逃れた後、1925年2月から天津の外国租界に移った。

天津での生活と日本との接触

 その時期に孫文の中国国民党はソ連共産党との関係を深め、国共合作(第1次)を成立させた。孫文は1925年に死去したが、上海での五・三〇運動を機に反帝国主義・反軍閥の動きが強まり、翌年には孫文の後継者蔣介石による北伐が開始された。しかし共産党勢力の伸張を恐れた財閥やイギリスなどの工作もあって1927年に蒋介石は上海クーデタで共産党を排除、国共合作は崩壊した。蔣介石による北伐は完了し、南京政府による中国統一は完成したが、この混乱に乗じて中国進出を目指す日本の干渉が強まり、山東出兵、張作霖爆殺事件(1928年)が続いた。天津の租界で自由な生活を送っていた溥儀であったが、1929年の世界恐慌が波及するなか、1931年、日本の関東軍満州事変を引き起こしたことで、再び政治の表舞台に登場することとなった。
 関東軍の参謀土肥原賢二は秘かに溥儀に接触、1931年11月10日に天津を脱出させ、営口を経て旅順に入り、関東軍の保護を受けることとなった。この溥儀の天津脱出は清の王族出身で日本人の養女となっていた川島芳子が関わったとされている。川島芳子は男装して天津の社交界で活躍し、関東軍のスパイとして暗躍していたという。

満州国執政、次いで皇帝となる

 1932年1月、溥儀は関東軍の参謀長板垣征四郎と会談して執政就任を承諾、2月に満州国建国が宣言されると、3月9日、その要請を受けた形で満州国執政に就任し執政となり、首都新京に入った。満州国に対しては中華民国政府が異議を申し立てたので国際連盟はリットン調査団を派遣、5月には溥儀自身も調査団の尋問を受けている。9月、日満議定書が調印され、日本政府も正式に満州国を正式に承認したが、国際的な認知は進まなかった。翌1933年、日本は国際連盟を脱退する一方、華北への侵攻を図った。
 次いで1934年3月1日、28歳となった溥儀は満州国皇帝(在位1934~1945年)となった。溥儀は清朝皇帝としては宣統帝と言われたが、満州国皇帝となってからは、日本ではそのまま名にすぎない溥儀と呼ばれていた。また満州国の実際も日本人が官僚、軍隊の実権を握り、傀儡国家にすぎなかった。
 関東軍が溥儀を担ぎ出したのは、満洲人の反漢民族意識を利用しようとたこと、日本人の直接支配ではなく満洲人の国家であることを国際的にも示す必要があったためであるが、溥儀も満州国家の復活に期待するところもあってその要請に応えたものであった。戦後、溥儀が中華人民共和国に捕らえられた際に、彼は関東軍に拉致されて満州国皇帝にさせられたのだ、と弁明したが、ジョンストンの著作『紫禁城の黄昏』では自らの意志で満州国に行ったと証言されており、結局中国に対する反逆行為であるとして有罪とされた。
 溥儀は満州国皇帝として、1935年1月と1940年5月の二度、来日している。弟の溥傑は日本に留学して軍人となり、日本人女性と結婚した。溥儀は清朝として中国を支配した満洲人の誇りを持ち、その再現を求めたが、実際の満州国は関東軍や南満州鉄道が支配し、日本人官僚も多く、教育にも日本語が使われ、神社崇拝などの強要もあって、次第に失望感を強めていった。

戦後の溥儀

 1945年8月、ソ連軍が国境を越えて侵攻し、満州国は崩壊、8月1日に退位した溥儀も日本への脱出を試みたが失敗し、瀋陽でソ連軍に捕らえられ、ハバロフスクで抑留生活を送った。1946年、東京での極東国際軍事裁判所では検察側の証人として証言台に立ち、満州国執政、皇帝となったのは日本軍の脅迫によると証言した。その後、中国側に戦犯として引き渡され、撫順・ハルピンなどの戦犯収容所に収容された。1959年に特赦によって出所し、政治協商会議の全国委員などを務め、最後は北京植物園に勤務するなど一市民として暮らし、1967年に波乱に富んだ生涯を終えた。中国が文化大革命で騒然としている時代だった。
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DVD案内

B.ベルトリッチ監督
『ラストエンペラー』
ジョン・ローン主演
1987 伊・中・米合作

清朝最後の皇帝にして満州国皇帝となった溥儀の生涯を壮大に描く。清朝末期の宮廷生活が眼前で繰り広げられるようで興味深い。歴史的事実とは合わない部分もあるが、皇帝としての栄光と不幸、生い立ちゆえに日中戦争に翻弄される姿、そして苛酷な新中国での戦犯としての境遇。その最後には文化大革命までもが活写されていて、中国現代史を知る上でも是非みておいて欲しい。

書籍案内

溥儀
『わが人生』上
1992 ちくま文庫

溥儀
『わが人生』下
1992 ちくま文庫