清
17~20世紀初頭まで、女真(満州人)が中国を支配した征服王朝。17世紀後半の康煕帝、18世紀の雍正帝・乾隆帝の時代に最盛期となり、その領土を拡張し、現在の中国領の原型を作った。19世紀前半から欧米列強の侵入が顕著となり、1840年のイギリスとのアヘン戦争を境に半植民地化の道をたどる。また末期には太平天国の乱の大乱があり、国力を衰退させ、また19世紀後半からは資本主義列強の侵略を受け、たびたびの改革にも失敗して、1911年の辛亥革命で倒れ、中国最後の王朝となった。
清の概要 ツングース系の女真が1616年、中国の東北部(満州)に建国した後金が、1636年から国号を清に改めた。清はその後、中国本土の明が李自成の乱によって滅んだことによって、1644年に北京に入って都を盛京から移し、李自成の反乱を鎮圧して中国支配を開始した。
清朝は明朝にひき続き、北京の紫禁城に入ったが、呉三桂など、漢人部将の藩王は地方に自立しており、また鄭氏台湾など明の遺臣を称する勢力が残っていた。
1667年に親政を開始した康煕帝は、藩王の力を削減をめざし1673年からの三藩の乱によって呉三桂らを1681年までに倒し、漢人勢力を抑え、中国統一を達成した。また1683年には鄭氏台湾を制圧、その他にもモンゴル、チベット、青海などに領土を広げ、北方ではロシアとの間で康煕帝が1689年にネルチンスク条約、雍正帝が1727年にキャフタ条約を結び、現在の中国の領土に等しい領域を支配した。また周辺諸国の朝鮮とベトナムに対しては宗主国として影響力を持ち続けた。
17世紀末から18世紀の康煕帝・雍正帝・乾隆帝の時代はその全盛期であり、領土は最大となり、人口も急増した。しかし、18世紀末から国内の社会不安、国外のヨーロッパ勢力の圧力などから次第に動揺が顕わになって行った。まずイギリスによるアヘン密輸が銀の流出と中毒の蔓延という問題を引き起こし、アヘン密輸を禁止したことからイギリスとの間で1840年のアヘン戦争となり、近代装備のイギリス軍に敗れ、香港割譲などの植民地化の危機にさらされることとなった。
民衆の清朝と外国に対する怒りは、1850年に農民を組織した洪秀全の太平天国の乱として爆発したが、それが収まらないうちに英仏は再び口実を設けて清朝を攻撃、1856年からアロー戦争となった。列強は武力で清朝を屈服させ、南京条約・天津条約など不平等条約を締結した。この危機に対し、清朝でも漢人官僚の中から近代化を目指して洋務運動が起こったが、一方で清朝の上からの改革に対して清朝そのものを倒そうという、孫文らの革命運動も始まった。
そのころ明治維新を経た日本が急速に台頭、1894年の日清戦争で、清は敗北し、それをきっかけに帝国主義列強による中国分割が進行、危機感を強めた改革派の戊戌の変法の動きが出たが、それは保守派に抑えられて失敗、1900年には民衆の列強に対する反発から義和団事件が起き、それを機に再び列強が出兵して北京を占領、清朝は危機に陥った。
清朝の最後の改革である光緒新政は徹底を欠き、かえって革命運動が激化、1911年の辛亥革命によって翌1912年1月1日、孫文は南京で臨時大総統となり、中華民国の成立を宣言した。清朝の最後の皇帝であった宣統帝は実力者袁世凱によって退位を迫られ、同年2月12日に退位した。これは清朝の終わりであると共に、実に紀元前3世紀末の秦の始皇帝から続いた皇帝政治がここに終わったことを意味し、中国にはアジア最初の共和国家である中華民国が成立した。。
(1)清の建国
後金の建国
ツングース系の狩猟民族女真は、かつて金を建国し、華北を支配していたがモンゴルに滅ぼされ、以後は元、さらに明の支配を受けていた。17世紀に入ってヌルハチ(後に清の太祖の廟号が贈られる)がでて、それまでいくつかに分かれていた女真を統一し、1616年には独立して国号を「後金(アイシン)」と称した。国号を清に 1636年に第2代のホンタイジ(太宗)のとき国号を中国風に改め「清」とした。ホンタイジが、中国全土の統治権を持つと主張できたのは、彼が1632年に内モンゴルのチャハル部を討ったときに、元帝室が持っていた国璽(皇帝だけが持つ正式な印鑑)を手に入れたからだという。しかしこの段階ではいわゆる満州の地とモンゴルの一部を支配するだけであった。清は明の支配する中国本土に攻撃の手をゆるめなかったが山海関を超えることはできなかった。
清の中国統一支配
ところが、1644年、明に李自成の乱が起こり、明の崇禎帝が死んで滅びると、山海関を守っていた明の部将呉三桂は清に降伏し、その先兵となって北京の李自成政権を倒すために清軍を山海関内に引き入れた。当時清は第3代順治帝(世祖)で、まだ幼少であったので叔父のドルゴンが摂政となり、実権を握っていた。ドルゴンは呉三桂などの漢人を登用して明の残存勢力を討ち、中国の統一支配を進める一方、明の機構をそのまま継承して漢民族との融和を図った。ドルゴンが死んで親政を始めた順治帝も同様な姿勢をとった。康煕帝 1661年第4代皇帝となった康煕帝は、親政を開始すると1673年からの三藩の乱で呉三桂ら藩王の勢力の削減に乗りだし、1681年に鎮圧に成功して漢人武将の勢力を抑え、さらに1683年には鄭氏台湾を平定してはじめて台湾を中国本土の王朝の支配下に入れ、清の全国的な統一支配を達成した。
(2)清朝の全盛期
康煕帝の時代に清朝による中国全土の統一が達成されたが、その後、18世紀の雍正帝・乾隆帝時代という長い繁栄の時代がもたらされた。この間、その領土を中国史上最大とし、直轄地はシベリア南部や台湾におよび、モンゴル・青海・チベット・新疆地方は藩部として間接統治した。また朝鮮やベトナムには宗主権を及ぼし、周辺諸国からは朝貢貿易を行った。イギリスなど外国との貿易も始まったが当初は茶の輸出で栄え、一方的な輸出超過であったため大量の銀が流入して、税制も地丁銀制となった。18世紀の権力の安定と経済の発展により人口も1億数千万から約3億に増加した。
この間、の動きをまとめると
このように清朝は、漢人の文化や制度を取り入れながら、独自の姿勢も維持しており、それは辮髪令の強制や文字の獄などのムチの政策も用いたことに顕れている。清は完全に漢文化に同化したわけではないので征服王朝ということが出来る。清朝の中国支配は1644年から1911年まで267年続いたので、征服王朝として最も長く続いた王朝(最後の王朝となったが)であったのは、漢文化への同化と独自文化の強制が巧妙に組み合わされた結果であった。その結果、例えば辮髪(弁髪)は漢人の中にいったん受けいれられると、やがてそれが当然のこととなり、弁髪は中国人全体の風習のように思われるようになった。 → 清の文化
この間、の動きをまとめると
- 中国王朝としての最大領土の獲得:台湾、モンゴル高原、東トルキスタン(新疆)、チベットの獲得
- 経済の発展と銀の流通にともなう税制の地丁銀への転換(およびそれに伴う人口の増加)
- 内閣大学士に代わる軍機処の設置(雍正帝)
- 清に有利なロシアとの国境協定:ネルチンスク条約(康煕帝 1689年)、キャフタ条約(雍正帝 1727年)
- 文化事業の積極的な展開と、反面の文字の獄
- キリスト教宣教師の活躍と、反面の典礼問題(康煕帝)の発生。1723年にキリスト教布教を禁止(雍正帝)
征服王朝としての特徴
清は東北地方の女真が建国し、中国の大多数の漢民族を支配したが、直接清朝を倒したのではなく、明を倒した李自成の乱を平定して中国の支配者となったことを自らの正当性の根拠とした。そのため明朝の制度や統治機構は基本的に残し、科挙制度も継続した。しかし、宦官は明の弱体化の一因となったことを受けて、一時廃止するなど、積極的には継承せず、清は中国の王朝では宦官の害が比較的少なかった。また、軍事体制では、女真独自の八旗制を基本としていた。また各官庁の役人は満漢併用制をとって満漢同数とし、宮廷の正式文書も満州文字と漢字の両方を用いた。このように清朝は、漢人の文化や制度を取り入れながら、独自の姿勢も維持しており、それは辮髪令の強制や文字の獄などのムチの政策も用いたことに顕れている。清は完全に漢文化に同化したわけではないので征服王朝ということが出来る。清朝の中国支配は1644年から1911年まで267年続いたので、征服王朝として最も長く続いた王朝(最後の王朝となったが)であったのは、漢文化への同化と独自文化の強制が巧妙に組み合わされた結果であった。その結果、例えば辮髪(弁髪)は漢人の中にいったん受けいれられると、やがてそれが当然のこととなり、弁髪は中国人全体の風習のように思われるようになった。 → 清の文化
(3)清の動揺
18世紀、イギリスなど西欧諸国の外圧が激しくなり、国内の改革も試みられたが失敗し、1911年に辛亥革命で倒れた。
アヘン戦争
しかし、18世紀末には貧富の差の拡大などから農民の不満が強まり、1796年、白蓮教徒の乱などの農民反乱が起こり矛盾が強まってきた。さらに、産業革命後のイギリスなど自由貿易の要求が強まり、アヘンの密貿易が行われて社会不安が広がると共に、銀が流出し清朝の財政が困窮、そこから1840年に起こったアヘン戦争でイギリスと戦ったが敗れ、1842年、南京条約によって香港割譲、不平等条約の締結など、植民地化の危機が始まった。太平天国とアロー戦争
清朝の支配と外国勢力の進出に反発した民衆が洪秀全に率いられて1850年に太平天国の乱を起こすが、清朝は外国軍隊も動員してそれを鎮圧、一方イギリス・フランスは1856年、アロー戦争をしかけて露骨に侵略を強め、1858年に天津条約・1860年に北京条約でキリスト教の布教や開港場の増加を認めさせた。また北方からはロシアの勢力も南下して北京条約(清-露)を締結した。同治の中興
このような外圧が強まるなか、清朝でも漢人官僚による同治の中興といわれる上からの近代化(洋務運動)を試み、一応の安定を取り戻した。しかし1870年代以降には、清の宗主権の下にあったインドシナと朝鮮が外敵に脅かされるようになった。いち早く日本は開国に踏み切り、明治維新を成し遂げた明治政府は、琉球帰属問題・台湾出兵で清の東辺を脅かし、1884年には清仏戦争でフランスに敗れ、ベトナム保護国化を許した。ついで焦点は朝鮮をめぐる日清の対立へと移った。日清戦争
清朝の宮廷では西太后が実権を握り、それを支える李鴻章など保守派の漢人官僚は外交的な冒険を避けていたが、それに対して光緒帝の周辺には積極的な改革と国権の強化を主張する強硬派が台頭、彼らの主張に動かされ、1894年に日清戦争の開戦となった。清朝の主力となった軍隊は、淮軍の流れをくむ北洋軍と海軍の北洋艦隊であったが、いずれも李鴻章の私兵という性格が強く、近代的な訓練の進んだ日本軍には勝てなかった。その敗北の結果、清は1895年、日本との下関条約を締結、朝鮮の独立を認め、遼東半島・台湾・澎湖諸島の割譲、二億両の賠償金を支払うことになった。(4)清の滅亡
19世紀末、帝国主義列強による中国分割が進み、戊戌の変法で改革が試みられたが失敗、1900年に民衆が蜂起して義和団事変となった。その鎮圧を口実に欧米列強はさらに侵略を強めた。その激動の中から孫文らの清朝打倒運動がさかんになり、1911年に辛亥革命で清朝は倒れ、中国の皇帝制度は終わり、アジア最初の共和政国家が成立した。
戊戌の変法
日清戦争での敗北に衝撃を受けた清朝宮廷内部の科挙官僚は強い危機感をもち、その中から改革派が生まれた。1898年4月、改革派の先頭に立った康有為・梁啓超は、光緒帝の支持を取り付けて、戊戌の変法(変法自強)といわれる、立憲君主政体への移行を目指す改革に着手した。しかし、西太后と保守派は彼らを戊戌の政変で弾圧し、改革の試みはつぶされた。中国分割
日清戦争の講和条約である下関条約で日本が獲得した領土について、ロシア・フランス・ドイツの三国は清朝に返還するよう日本に要求した。日本はこの三国干渉に対して屈服せざるを得ず、遼東半島などは清に還付した。清朝の国土が列強の取り引き材料とされる事態となり、中国に対する帝国主義諸国による分割の開始となった。日清戦争で清の敗北を見て、帝国主義列強の中国進出は一挙に激しくなって、まずロシアは1896年に露清密約で東清鉄道の敷設権を獲得した。中国民衆の中に外国勢力、キリスト教に対する敵対心が強まり、外国人宣教師殺害事件などがおこったことで、1898年に列強はそれぞれ口実を設けて清朝に迫り、租借という形で土地を支配したり、鉄道の敷設権という形で勢力圏を獲得する中国分割が進んだ。特にロシアは旅順・大連の租借権を獲得して満州から遼東半島に勢力を伸ばした。イギリスは威海衛を租借するとともに長江流域に進出、ドイツは膠州湾の租借を通じて山東半島へ、フランスは広州湾から中国南部を勢力圏とした。日本は福建省を勢力圏とした。出遅れたアメリカは門戸開放を主張した。
義和団事件(北清事変)
戊戌の変法という上からの改革は、宮廷の内部対立から失敗した。しかし、列強の支配に対する民衆の反発は強まり、それはキリスト教に対する仇教運動として激しくなった。ドイツの支配する山東省では義和団という白蓮教系の教団がおこり、1900年4月には「扶清滅洋」(清を助け、西洋を滅ぼす)をかかげて民衆蜂起を興し、北京を占領してて都度王を破壊した。義和団事件がおこると、義和団の反乱軍は北京を占領した。1900年6月21日、清朝は慌てて義和団に同調し、列強に宣戦布告するところまで行ったが、1900年に8カ国連合軍が北京に入場し、西太后らは北京を脱出した。北京議定書 結局義和団は鎮圧され。1901年9月7日、清朝政府は北京議定書(心中条約)で賠償金の支払いと北京・天津への外国軍の駐兵を認めるなど大幅な譲歩を強いられた。このと列強の中で中国に大きな足場を築いたロシアは、鉄道の保護を口実に満州の駐留軍を撤退させず、イギリスと日本はともに警戒を強め、1902年1月30日には日英同盟を締結した。これ以後アジアの焦点は満州をめぐるロシアと日本の対立へと向かっていく。
光緒新政
義和団事件後、帝国主義列強の侵略がさらに激しくなる中で、1901年1月から清朝政府の最後の改革である光緒新政が行われた。科挙の廃止・憲法大綱の制定・新建陸軍(新軍)の設置などの近代化策がとられたが、それを主導した袁世凱は、権力強化をはかるだけで抜本的な改革は進まなかった。革命運動の始まり
清朝の上からの改革は再び失敗し、政権はますます弱体化していった。しかし、国内では民族資本が少しずつ成長し、また華僑の中から清朝打倒・民族独立の運動が生まれてきた。その核となったのが孫文であった。孫文はすでに1894年に興中会を組織、その革命運動はたびたび弾圧を受け、内部対立もあって混迷した時期もあるが、孫文の掲げた三民主義は、次第に中国民衆の支持を受けるようになっていった。その他にも光復会、華興会などが生まれ、それらは1905年8月、中国同盟会を東京で結成、孫文を会長に選んで本格的な革命政党として活動を開始した。この間、1904年に日露戦争に勝った日本は、旅順・大連租借権、南満州鉄道敷設権などをロシアから引き継ぎ、並行して韓国併合を進め、満州・遼東半島・内モンゴルなど中国大陸への野心をあからさまにするようになった。
辛亥革命
清朝政府の鉄道国有化政策に対する四川暴動を契機に、革命派の新軍が蜂起した1911年10月10日の武昌蜂起が全国に波及することによって、辛亥革命が起こり、翌1912年1月1日、中華民国が成立した。その後、革命後の権力争いから孫文と、清朝の実権者から革命側に転じた袁世凱の対立となり、後者が権力をにぎることとなった。しかし、1912年2月12日清朝最後の皇帝宣統帝は結局退位することと成り、紀元前2世紀の秦の始皇帝から続いた皇帝制度そのものもここで終わりを告げることとなった。