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捻軍

ねんぐん。清末の中国で、太平天国に呼応した農民の反乱。太平天国が鎮定されてからも反乱をつづけ、1868年に李鴻章の淮軍によって平定された。

 捻匪(ねんぴ)ともいう。捻とは、隊を組むことの意味(油紙を捻(よ)って燃やし、神を迎える風習が農民にあったとの説明もある)で、もとは華北一帯で博打や強盗を事とする遊侠集団であった。アヘン戦争後の社会不安と不況が続く中で、農民も加わるようになり、次第に反清朝の意識を強くし、1853年に太平天国が長江流域に及ぶとそれに呼応して長髪にし、清朝打倒を掲げて軍事行動を起こすに至った。
 太平天国のような統一的な国家組織や指揮系統をもった集団ではなかったが、その勢力は強大で、太平天国の前後に長期にわたって淮河周辺で猖獗をきわめ、清朝を苦しめた。清朝政府は、南京を中心とした太平天国よりも、より北京に近い所で起こった反乱なので、危機感は一層強かった。
 1864年に太平天国が滅亡すると、その残党が捻軍に合流、山東省で再び蜂起、1865年5月には討伐に向かった僧格センゲ林泌リンチンの率いる清朝最精鋭のモンゴル騎兵を敗走させた。あわてた清朝政府は太平天国鎮圧に最大の功績のあった曾国藩に山東の捻軍討伐を命じた。しかし、曾国藩は8万の兵力で行動を開始したが、すでに自己の私兵組織である湘軍を解散しており、清朝軍事力の主力は李鴻章の淮軍に移っていたため作戦を進めることが困難であったため引責辞任し、李鴻章に交替した。<岡本隆司『李鴻章』2011 岩波新書 p.158-160>

李鴻章の淮軍に鎮圧される

 1864年に太平天国が滅亡してからも抵抗を続け、長槍で武装した騎馬部隊による遊撃戦を展開したが、火砲を有する李鴻章淮軍に押されて1866年に東西に分裂し、東捻が壊滅、さらに西捻は山西から山東に転戦したが、最終的には1868年8月に鎮圧された。蜂起から鎮圧まで、16年の長期にわたった農民反乱であった。
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