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満州(満洲)

女真が自らを満洲といったことから、中国の東北部をさす語句として使われるようになった。20世紀にロシアと日本が進出して対立し、日露戦争となった結果、日本は南満州鉄道と関東軍などを通じて南満州支配を拡張した。中国との対立がもたらされると関東軍は満州事変を起こし、1932年、傀儡国家として満州国を設立した。日本は満州に開拓団として多くの移民を送った。満州はソ連と境界を接することとなり、ノモンハン戦争に見られる国境紛争がしばしば起こった。第二次世界大戦末期、ソ連軍が侵攻、満州国は崩壊、多くの犠牲、残留孤児が生じた。

もとは民族名

 清朝成立後の女真を満州人という。清朝が成立した後、女真に代わって使われるようになった。女真の間で信仰されていた文殊(モンジュ)菩薩にもとづき、自らの民族名を満洲(マンジュ)と言うようになった(異説もある)。中国ではかつての金以来、女真は侵略者と見られていたので、中国支配を進める上で彼らは自ら民族名を変え、満洲人と自称するようになった。したがって満洲は、地名ではなく、民族名であったが、後に日本では彼らの拠点とした中国東北部さす地名として使われるようになった。本来は「満洲」であるが、省略形の満州をつかうことが多い。 → 満州文字
満州か満洲か 日本では「満州」が広く用いられ、「州」の字がつくことから、地名・地域名と誤解されることが多い。しかし本来は民族名であり満洲と書くのが正しい。満州はその省略形に過ぎないので、最近では教科書レベルでも「満洲」、「満洲事変」、「満洲国」とするものが現れている(実教出版、帝国書院など。山川詳説は現在も満州とする)。特に中国史の研究者からは「満州」は使うべきではなく、「満洲」とすべきであるとの主張が多い。もちろん従うべきであろうが、このサイトでは当面、混乱を避けて「満州」のままとする。

満州をめぐる日露対立

 清朝ではこの地に奉天省、吉林省、黒竜江省の東三省が置かれたが、その地の満州が地名として意味を持つようになったのは近代以降であった。アジアでの南下政策をつよめたロシアは、義和団事件に乗じて満州を占領、その後も居座りを続けた。それに対して警戒心を強めたイギリスと日本は、1902年に日英同盟を締結、ロシアとの対立が深まり、ついに1904年日露戦争となった。戦争の結果締結されたポーツマス条約で、それまでロシアが持っていた南満州の諸権利を日本に譲渡することが定められた。この譲渡は「清国政府の承認」が必要とされていたので、日本政府は直ちに清朝と交渉し「満州に関する日清条約」を締結した。これによって日本の南満州支配が成立した。

鉄道敷設をめぐるロシア、イギリス、日本の争い

 満州進出をめざしたのはロシア、日本だけではなかった。19世紀末の中国分割に参画したイギリスや、門戸開放を掲げて中国進出を狙うアメリカもまた、鉄道敷設とそれに伴う利権(鉱山の開発権など)を得ようと進出してきた。特にロシア、イギリス、日本の三国は鉄道敷設で争った。
 シベリア鉄道のゲージは標準軌ではなく5フィートの広軌であったが、これに対して日本とイギリスが朝鮮半島おおび満州に建設した鉄道は標準軌だった。シベリア鉄道とその支線の東清鉄道と、日英両国が建設した鉄道は相互に乗り入れできないため、20世紀初頭の東アジア国際関係の対立軸は、鉄道ゲージの対立でもあった。<井上勇一『鉄道ゲージが変えた現代史』1990 中公新書 p.11>

日本の満州支配

 日本の南満州支配の中心は、旅順と大連の租借権と旅順から長春への南満州鉄道とその支線に関する権利であった。日本は満州を関東州と称し、その権利を保護する目的で置かれたのが関東軍であった。満州は1910年に併合した朝鮮とともに、日本資本主義の成長にとっての市場、資源供給地として重視されるようになり、1929年の世界恐慌以降は、日本が不況を克服し、国内の農民の貧困を解決する植民地として期待されるようになり、その支配の全満州への拡大が策されるようになった。早くから逢った「満蒙は日本の生命線である」といった一方的な宣伝が盛んになされるようになった。
 満州には軍閥の一つ張作霖が勢力を有していたが、1928年の張作霖爆殺事件でそれを排除し、さらに1931年9月満州事変を起こして全面的な軍事展開を行った。そのようなあからさまな軍事行動にたいする国際的非難を回避するため、日本は傀儡政権「満州国」を建国した。しかし、国際連盟がその正当性を否定すると、日本は国際連盟を脱退した。

満州国とその崩壊

 満州には、日本から開拓団として多くの農民が送り込まれた。かれらは新天地を求めて移住し、満州(さらにその北辺のモンゴル地方も日本人・中国人・満州人・朝鮮人・モンゴル人の融和を図ったが、実態は日本人の強圧的な支配であったので、常に軋轢が繰り返された。
 満州事変から始まった日本の中国侵略は、1937年に日中戦争となり、中国全土に拡大、さらにその収束のためと称して東南アジアに戦線を拡大した日本は、アメリカ・イギリスとの衝突を余儀なくされ、太平洋戦争へと突入した。1945年8月9日に日ソ中立条約を破棄してソ連軍が満州に侵攻、関東軍はほとんど抵抗せず撤退し、日本人の本土への引き上げは多くの苦難を強いられた。また日本人の満州孤児が遺される結果となった。
 解放された満州は中国に返還されたが、1945年2月のヤルタ協定の秘密条項にもとづき、旅順租借権と大連の優越的地位はソ連が継承し、その後、1949年に中華人民共和国が成立すると中ソ間の懸案事項となったが、1955年、フルシチョフ政権下で中国に返還された。
 現在の中国では満州国を「偽満州」と称して国家として認めず、また満州という地名も使用を避け、「東北地方」と言われている。

NewS 現代の満州民族

 2007年5月3日の朝日新聞記事(世界発2007)によると、現代の中国で漢族に対する満州族(清朝以前は女真族)であることを自覚し、民族の歴史や言語に関心を持つ若者が増えているという。急速に発達したインターネットが満州族文化に接する機会を与え、北京では満州語の自主講座も開講された。現在、満州族とされるのは中国東北地方を故地とし河南、甘粛、北京、天津などに約1千万人が居住する。一般に漢語で生活し漢字を使用、人口の9割を占める漢族の名前を使い、服装や顔立ちでは見分けはつかない。満州語は清朝では公用語だったが、現在使える人はきわめて少ない。満州文字は16世紀末にモンゴル文字から作られ、北京の故宮(清朝の紫禁城)の門額などに今も見られる。
 満州族の歴史の見直しでは、例えば南宋の将軍岳飛は女真族の建てた金に徹底抗戦をしたことで「民族の英雄」と評価されているが、満州族も漢民族と共に中華民族を構成していることからすれば金と南宋の争いは国内の争いに過ぎず、民族の英雄という評価はあてはまらない。また太平天国は清末の農民反乱として中国革命の先駆とされているが、「滅満興漢」をかかげ多くの満州族を殺害した残虐なものであった。そして日中戦争時代、日本軍(と満州国)に協力した川島芳子は裏切り者の漢奸として処刑されたが、満州族の清朝の王女の一人であり、清朝復興をめざして尽力したことを再評価すべきである。などなど、清朝や満州国に関わる歴史の解釈変更がネット上の発言に見られるという。一方で漢族のネットでは清朝支配下で漢人が服装や髪型を強制されたことをとりあげ、伝統的な「漢服」の復活を主張する者もいる。<朝日新聞 2007/5/3 記事およびキーワードより>
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