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不平等条約の撤廃(中国)

不平等条約の関税自主権の解決に続いて、残る治外法権の撤廃が課題であったが、日中戦争の経過の中で、欧米諸国は蔣介石政権に対して1942年10月に宣言、日本は汪兆銘政権に対し1943年1月の日華新協定で承認した。

 不平等条約の改正問題は、中国国民政府の蔣介石率いる国民革命軍が北伐を実行し、1928年6月9日に北京に入城、軍閥を一掃して中国統一を達成したことをうけて、アメリカが1928年7月25日に中国の関税自主権の回復を承認したことで前進した。イギリスなど諸外国も12月までに改正条約に調印した。<
 日本は1928年5月3日に起こった済南事件の処理で遅れ、ようやく1930年5月に新関税協定を締結、中国の関税自主権を承認した。 残る治外法権の撤廃についても交渉が始まったが、満州事変、日中戦争の勃発のため、中断された。租界の返還についても交渉が行われ、武漢政府は漢口の租界を実力で解放するなど行動に出たためイギリスは反発して上海の租界の返還は遅れた。

第二次世界大戦での回復

 第二次世界大戦がアジアに及び、1941年12月に太平洋戦争が始まると、欧米列強は中国の協力を得るため蔣介石政権関係改善を狙い、まずアメリカ・イギリスは1942年10月に治外法権・租界の撤廃を宣言した。それはその年の初めに中国が連合国共同宣言に加わったことへの見返りであった。
(引用)(1942年)10月10日の建国記念日(辛亥革命勃発の記念日)の式典で、中国国民政府の指導者蔣介石は、小雨のなか集まった2万の参会者を前に、次のような演説を行っている。
「アメリカ・イギリスは、我が国一〇〇年来の不平等条約を撤廃すると正式に通告してきました。一〇〇年来の革命の先烈たちの奮闘、および総理(孫文)遺嘱の命は、ともに不平等条約を撤廃することにありましたが、それが今まさに実現したのであります。」(歓呼)
 アヘン戦争終結にあたって締結された南京条約(1842年)から奇しくも100年にあたる節目の年に、孫文が「遺嘱」で命じた不平等条約の撤廃がついに実現したわけだから、かれの遺命実現を最大の使命としてきた蔣介石にしてみれば、この日は生涯で最も晴れがましい瞬間であったことだろう。<石川禎浩『革命とナショナリズム』シリーズ中国近現代史③ 2010 岩波新書 はじめに>
 アメリカ、イギリスの共同租界の返還、治外法権の撤廃などを認め不平等条約はすべて廃棄は1943年1月11日に実現した。
 一方、日本は1943年1月9日汪兆銘の南京政府との間で租界還付および治外法権撤廃に関する日華新協定を調印した。欧米の租界にたいしては日本軍が武力で占領し、同年10月、それを傀儡政権汪兆銘政権へ返還した。<横山宏章『中華民国』中公新書1997 p.157-161 などのよる>
 日中戦争と太平洋戦争での日本の敗北によって、汪兆銘政府は中国では「偽政府」とされたため、日本との協定も無効となったが、蔣介石政府の締結した諸条約によって租界の返還、治外法権の撤廃が生きていたため、中国の不平等条約問題は解決した。問題解決の恩恵は次の中華人民共和国に継承されることとなった。
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書籍案内

石川禎浩
『革命とナショナリズム』
シリーズ中国近現代史③
2010 岩波新書