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汪兆銘/汪精衛

孫文の側近の国民党員であったが、蔣介石と対立、日中戦争の最中、重慶の国民政府を離脱、1940年3月、親日政権の南京国民政府を樹立し首班となった。講和に応じるなど日本に協力したが、国民の支持がなく、44年に日本で病死した。

 汪兆銘(おうちょうめい)1883-1944 の兆銘は「名」で、「字(あざな)」は精衛(せいえい)といった。日中戦争で日本は南京陥落後も頑強な中国の抵抗をうけ、重慶に移った国民政府に手を焼いていた。1938年1月には近衛文麿内閣(第一次)は「国民政府を相手にせず」と表明、軍事攻勢を強めて屈服させようとした。

日本軍の工作

 日本軍は広州・武漢を攻略したが、戦線は伸びきったまま長期化の様相を呈してきたため、本格的な講和を模索せざるを得なくなってきた。そこで、軍部は秘密裏に工作を進めて国民政府内の反蔣介石派と接触し、その分裂をはかった。その対象となったのが、孫文の後継者を自負しながら、蔣介石と対立して閑職におかれていた汪兆銘であった。軍が秘密工作を進める上での効果をねらい、近衛文麿内閣は、それまでの「国民政府を相手とせず」という方針を捨て1938年11月3日東亜新秩序を表明し、親日的な政府の出現を促した。
 陸軍の軍人によって上海で密かに進められた工作により、国民政府内のナンバー2(党副総裁)の汪兆銘(汪精衛)は1938年12月に重慶から脱出に成功、ハノイに迎えられた。近衛内閣は講和の三原則「善隣友好、共同防共、経済提携」を示し、汪兆銘もそれに応えて停戦を表明した。日本政府は汪兆銘を南京に迎え、1940年3月、親日政権として南京国民政府を樹立させた。しかし南京国民政府に対する中国民衆の支持は全くなく、重慶政府、共産党軍の抵抗は依然として活発であったため、戦争終結には役立たなかった。

蔣介石との対立

 汪兆銘は古くからの中国国民党員で、孫文の側近の一人で後継者と目されていた。当初は中国国民党左派の立場をとり、国共合作の精神を継承して蔣介石の上海クーデターに反対、武漢政府で共産党と協力態勢を継続した。しかしその維持に失敗、一転して反共に転じ南京国民政府に合流した。以後は国民革命軍をバックにした蔣介石に主導権を握られていたが、その下風に立つことに強い不満を持っていた。そこに目を付けた日本軍の工作を受けて、重慶を脱出、ハノイで日本の掲げる東亜新秩序に呼応し、傀儡政権の首班に収まった。

南京国民政府

 汪兆銘の南京国民政府(一般に南京国民政府とは1927年の上海クーデター後に蔣介石が南京に建てた政権を言う)は、「反共和平」「純正三民主義」を掲げ、日本と停戦して中国社会の再建をめざした。その間、日本は汪兆銘政権を中国の正統な政府と認めるため、大東亜会議への招聘、日華基本条約の締結を行い、日華新協定では不平等条約の撤廃を認めた。
 しかし、日中戦争が激化し和平が遠のくに従い汪兆銘は「売国奴」「漢奸」と非難されるようになり、1944年、病気治療と称して日本に渡り、11月に名古屋の病院で病死した。日本占領下の南京で一時存在した南京国民政府は日本敗北とともに消滅し、現在の中国では「日本の傀儡政権」、「偽政府」とされている。

Episode 「名」と「字(あざな)」

 中国人には「名」と「字(あざな)」があった。名は自分で名のるもの、字は他人から呼ばれる「よびな」である。そこで相手の名を呼ぶのは憚られ、字で呼ばなければならない。蔣介石の場合は「介石」は字で、名は「中山」であったから、日本人が彼を蔣介石と呼ぶのは相手を敬った言い方で問題がない。ところが日本の敵である蔣介石を名でよんだのに、親日派の汪兆銘に対してはその名で呼び、字の「精衛」とは呼ばなかった。汪兆銘はそれが不満で、日本側に抗議し、それからは字で「精衛」と呼ぶようにした。このように「名」を呼ぶことは失礼とされ、さらに亡くなった人の生前の名は「諱(いみな)」といって避けなければならないという避諱(ひき)の法が、特に皇帝では守られていた。<山口修『中国史55話』1996 山川出版社 p.39>
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