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北伐

1926~28年、蔣介石指揮下の国民革命軍による北京軍閥政府打倒の軍事行動。当初は国共合作の下で行われたが、次第に共産党排除の動きが強まり、1927年の上海クーデタで共産党が弾圧された。再開後は国民党単独で行い、途中日本の山東出兵などの妨害もあったが、1928年6月に北京に入城、軍閥を制圧して国民革命を達成、南京国民政府による中華民国の統一が実現した。

 1926年から28年にかけて、中国(中華民国)の第1次国共合作のもとで国民政府によって展開された国民革命の一環として行われた国民革命軍による北京(北伐完了後、南京に対して北平とされた)の軍閥を打倒する戦い。この中国統一を目指した戦いを国民政府は国民革命と称した。
 1926年7月、広東国民政府(広東政府、広州国民政府とも言う)では、前年に死去した孫文の遺志を継いで、蔣介石が「帝国主義と売国軍閥の打倒と人民の統一政府の建設」を掲げ、約10万の国民革命軍を率いる総司令として北伐(出師北伐)を開始した。

北伐の開始

 北伐には共産党も協力、ソ連の軍事顧問団も加わり、幾つかの方面軍に分かれて進み、各地で軍閥の軍隊を撃破し、武漢・南昌・福州・杭州・南京を落とし、翌年3月には上海に迫った。北伐に呼応して各地で民衆がたちあがり、都市では労働者のストライキが頻発し、農村では農民が地主を襲撃した。また、外国の支配下にある租界の返還を要求して襲撃するなどするなど、革命情勢が広がった。
武漢の租界回収と南京事件 北伐軍が武漢を制圧したことを受け、広東国民政府は1927年1月1日に武漢に移転、武漢国民政府と言われるようになった。そのとき武漢のイギリス租界を守るイギリス軍との衝突があり、中国人が殺害されたことから民衆が租界に押しかけ、イギリスややむなく租界の返還に応じるという事件もおこった。3月に北伐軍が南京に迫ると、南京でも民衆が租界に乱入しイギリス、アメリカ、日本の守備隊と衝突する南京事件が起こった。
 このような革命情勢の高まりに対して、上海の浙江財閥などの民族資本や租界の権利などをもつイギリス、アメリカ、日本など帝国主義諸国は強く警戒するようになった。特に武漢や九江での租界の実力での回収、3月の南京事件は帝国主義諸国と財閥に大きな衝撃を与え、危機感をもった彼らは国共合作の解消と共産党の排除を秘かに蔣介石など国民党右派に働きかけるようになった。

上海クーデタ

 このようななか、北伐軍が上海に迫ると、 社会主義への傾斜を恐れた蔣介石は上海クーデタを起こして共産党勢力を排除、大弾圧を加えて第1次国共合作は崩壊した。

北伐の再開

 上海クーデタで一時中断された北伐は、独裁的な権力を握った蔣介石によって1928年4月に再開された。北伐軍が北京に迫ると、日本は居留民保護を名目にたびたび干渉し山東出兵を行った。特に1928年5月には、山東省済南で、北伐軍と日本軍が衝突し済南事件が起こった。蔣介石は日本との全面的な対決を避けて迂回し、北京に向かった。
 しかし再開後の北伐軍は、本来の反軍閥、反帝国主義の「国民革命」軍という基本的な使命を失い、南京政府による全国統一の仕上げという権力闘争の様相を呈した。国民革命軍もその内実は、もと直隷派軍閥の馮玉祥、山西軍閥の閻錫山、広西軍閥の李宋仁らの軍からなる混成軍にすぎなかった。また、最初の北伐の時のような民衆の協力や、多くの知識人の参加などの国民的な盛り上がりはなくなっていた。

北伐の完成

 しかし迎え撃った北京の張作霖軍と呉佩孚、孫伝芳らの軍閥軍にも戦闘意欲はなく、次々と敗北し、6月3日には張作霖は北伐軍の入城の前に北京を脱出してしまい、1928年6月8日、北伐軍は北京に無血入城した。この国民革命軍の北京入城によって北伐は完了した。6月15日、南京国民政府は正式に全国統一を宣言した。7月6日には、蔣介石、馮玉祥、閻錫山、李宋仁の四司令がそろって北京西山碧雲寺の孫文の墓前に、北伐完了を報告した。

東三省の易幟

 一方、北京を脱出した張作霖は、6月4日に日本の関東軍によって張作霖爆殺事件によって謀殺された。関東軍は一気に満州の実効支配を実現することをもくろんだが、奉天軍閥を継承した張学良は、7月に使者を北京の蔣介石に送って国民政府に従うことを証明し、12月26日に東三省に中華民国国旗「青天白日旗」を掲げた。これを易幟(えきし。旗幟を改易すること)という、これによって中華民国の国民政府による中国統一は完成した。
 それ以後の1930年代の中国の情勢は国民政府による全国統一はできたものの、共産党は農村を根拠に支持を拡げつつあり、国民政府と中国共産党の内戦はますます激しくなる。その一方で、満州方面からの日本の軍事的侵略の本格化という二面で展開されることになる。
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