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張学良

奉天軍閥の張作霖の子。1928年、張作霖爆殺事件の後、中華民国への帰属を表明。1936年、西安事件を仕組んで蒋介石に国共合作を迫り、実現させた。

 張学良は、1928年6月4日に父の張作霖が日本の関東軍の謀略である張作霖爆殺事件によって殺害された。さらに日本軍から脅迫を受けたが屈せず、1928年12月29日、東三省(中国の奉天・吉林・黒竜江の三省。満州の別称。)に一斉に青天白日旗(中華民国の国旗)を掲げ、蔣介石の国民政府に従うことを明らかにした。これを易幟(旗を変えること)といい、中国は中華民国(蔣介石の南京国民政府)によって統一されるべきであるという姿勢を明確にした。 → 国民政府の中国統一

東北の支配権を目指す

 張学良は、国民政府軍の一部としての東北軍司令官として蔣介石を支えることとなり、1929年には中東鉄道(かつての東清鉄道)の利権をソ連から回収しようとして軍事行動を起こしたが、ソ連軍が国境を越えて侵攻し、東北軍は敗北したため、鉄道会集は出来なかった。張学良はその後も日本の支配下にある南満州鉄道に対抗する鉄道建設を行うなど、東三省の土地に意欲を燃やした。
 1930年には国民政府の蔣介石統治に対して旧軍閥勢力の閻錫山、馮玉祥らが反乱を起こすと蔣介石支持を打ち出してその鎮圧に功を立て、陸海空副司令(軍令部長)に任命され、東北軍に加えて山西、西北の両軍の指揮権も与えられてた。これによって南京にいる蔣介石に代わって、華北一帯の軍事権を握ったことになる。

満州事変

 1931年9月柳条湖事件(南満州鉄道爆破事件)が起きると、日本の関東軍は張学良の東北軍の犯行と断定して軍事行動を開始、満州事変が始まると、日本軍による迅速に満州の要地の占領を許した。張学良はこの時積極的な抵抗を行わず、さらに関東軍が1933年2月に熱河省に侵攻するとその占領も許したことで、その責任を取らされ、軍令部長の任を解かれた。
 張学良は任を解かれると1年ほどヨーロッパを巡遊した。ちょうどその時、ドイツのヒトラー、イタリアのムッソリーニのファシスト政権が台頭しており、彼は目の当たりにファシズム体制とその強力な指導力に触れ、そのような指導力を蔣介石に期待する気持ちを抱いて帰国したという。<石川禎浩『革命とナショナリズム』シリーズ中国近現代史③ 2010 岩波新書 p.157>
「内戦停止、一致抗日」に傾く。 帰国後、張学良は蔣介石に命じられて1935年秋、東北軍15万を率いて陝西に遠征して共産党軍の包囲掃討作戦を行ったが、共産軍の反撃に遭って成果を上げられないまま西安入った。そのころ東北軍の兵士の中に、故郷を離れて遠征し、同じ中国人と戦うことへの疑問の声が強くなった。その背景には十二・九学生運動に立ち上がって弾圧された学生が西安に逃れてきて、盛んに「内戦停止、一致抗日」を兵士に説いたことがあった。また共産党の秘密工作員が張学良に接触、1936年4,5月には二度にわたり秘密裏に周恩来と会談、次第に共産党との協力を具体化する方に傾いた。このとき張学良は共産党への入党を望んだと言うがそれは実現しなかった。<石川禎浩『同上書』 p.158>

不抵抗将軍

 1931年、満州事変がおき日本の中国侵略が激しくなったが、初めは国民政府の蔣介石の方針に従い、中国共産党との戦いを優先し、日本の侵攻にほとんど抵抗しなかったため「不抵抗将軍」とあだ名された。しかし延安の共産党軍との戦いを続けるうち、中国人同士の殺し合いに疑問を感じ、中国共産党抗日民族統一戦線の考えに共鳴するようにった。すでに中国共産党は1935年に八・一宣言を発表して国民党に統一した抗日を呼びかけていた。

西安事件

 張学良は、1936年12月、張学良軍に対し共産軍との戦いを督戦に来ていた蔣介石を監禁して、内戦を停止し共産党と協力して日本軍と戦うことをせまった。この張学良とそれに協力した楊虎城将軍による実力行使は、当時は「兵諫(へいかん、武力によって諫めること)」といわれ、世界を驚かせた西安事件であった。共産党の周恩来や蔣介石夫人の宋慶齢、その兄の宋子文らの斡旋で、蒋介石は共産党討伐の停止、一致抗日に同意、共産党も軍を蔣介石の指揮下に入れることを誓い、解放された。ただしこの合意は互いの信頼に任され、文書は作成されなかった。そのため、事件によって直ちに国共合作が再建されたということはできないが、それに向けて決定的な出来事となったことは確かである。正式な国共合作は、間もなく危惧されたとおり日中の前面衝突である盧溝橋事件が勃発したことによって実現することとなる。

第2次国共合作の成立

 翌1937年7月、盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が始まると国民党と共産党による第2次国共合作が成立した。張学良自身は西安事件後、自ら国民政府の裁判を受けその拘束下に入り、戦後も国民政府と共に台湾に移って軟禁状態で生涯を送り、2001年に100歳で死去した。

Episode 張学良、日本の若者へのメッセージ

 1990年、NHKは台湾でひっそりと暮らしていた張学良のインタビューに成功、その模様を放映した。それまで、一切の取材を拒否していた張学良が口を開いたと言うことで世界中に大きな反響を呼んだ。その内容は『張学良の昭和史最後の証言』に詳しい。番組の最後に、張学良は「日本の若者に話したい」と次のような話をした。
(引用)私は、一生を日本によって台なしにされました。私は日本に父親を殺され、家庭を破壊され、財産も奪われたのです。・・・・私は日本の若者にぜひとも言いたいことがあります。日本の過去の過ちををまずよく知ってください。そして過去のように武力に訴えることを考えてはいけません。(・・・孔子の言う「忠恕」の忠は国に対する忠誠で、恕とは他人を許す心です。)日本は忠のほうはありますが、恕が少なすぎます。つまり思いやりが少ないのです。日本政府は外国に対しても、また国民に対しても、恕がないのです。・・・・私は日本の若者だけではなく、日本の責任ある立場の人にも、他人を思いやる気持ちを持ってほしいと願います。・・・私はもし昔、日本の若者とよりよく理解し合っていたならば、歴史はどうなっていたかとさえ考えさせられます。だから私は世界の若者に期待を抱いています。・・・」<NHK取材班『張学良昭和史最後の証言』1991 角川書店 p.241~、p.260>
 また同書に拠れば、インタビューの最後に張学良から取材陣に対し、「日本は何故東条のような戦犯を靖国神社に祭っているのか。靖国神社に祭られる人は英雄である。戦犯は日本国家の罪人ではないのか。彼らを祭っているのは、彼らを英雄と認めたからなのか。」と質問したという。そしてこの部分は放送ではカットされた。
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書籍案内

NHK取材班
『張学良 昭和史最後の証言』
1991 角川書店

石川禎浩
『革命とナショナリズム』
シリーズ中国近現代史③
2010 岩波新書