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南満州鉄道(満鉄)

満州の長春と遼東半島先端の旅順を結ぶ鉄道。ロシアは東清鉄道のハルビンから大連・旅順を結ぶ支線を敷設していたが、日露戦争後のポーツマス条約でその支線の長春以南の営業権を得た日本が、1906年に南満州鉄道会社(略称が満鉄)を設立して運営した。満鉄は日本政府が半分を出資する国策会社であり、鉄道の営業の他に沿線の行政権も持ち、石炭・鉄鉱石などの鉱業なども展開することのできる巨大な組織となっていった。日本は満鉄の経営をテコに満州への進出を図り、1932年に満州国を作った。

 ロシアは三国干渉で日本から遼東半島を還付させた見返りとして、1896年東清鉄道の敷設権を獲得した。これはシベリア鉄道から分岐し、満州里から満州を横断し極東のウラジヴォストークに繋がるもので、中国の鉄道ではあるが、敷設権と経営権はロシアが持つという、帝国主義国家による中国分割の一例であった。

日露戦争

 ロシアはさらに1898年3月には遼東半島南部(大連・旅順)を租借し、東清鉄道の中間点ハルビンから分岐して南下し、旅順に達する南満支線の敷設権を獲得した。この鉄道建設によるロシアの満州の進出は、日本との利害対立をもたらし、1904年日露戦争の勃発となった。
 日露戦争は日露双方に多大な犠牲を生じたが、戦闘では日本軍の優勢のまま1905年ポーツマス条約が締結され、日本は賠償金を獲得することはできなかったものの、樺太の南半分の領土と、遼東半島南部(旅順・大連)の租借権、長春以南、旅順・大連までの南満州鉄道経営権などを認めさせた。しかし日本国内では交渉に当たった小村寿太郎を非難する声が強まり、日比谷焼打ち事件が起こった。

ポーツマス条約

 ポーツマス条約で日本が獲得したのは、樺太南半分の割譲と、ロシアの遼東半島南部(関東州)の旅順・大連租借権の継承とともに、ロシアの南満支線の長春以南の経営権と沿線の鉱山開発などの利権であった。小村寿太郎は、東清鉄道のハルビンから分岐する満満刺線全線の経営権譲渡を主張したが、ロシア代表ウィッテは強く抵抗し、結局全線ではなく、長春以南に限ることで妥結した。日本の全面的な勝利ではなかったこと、また日本が全線を獲得した場合のアメリカなどの反発を考えれば、小村寿太郎は妥協しなければならないと考えたのであろう。アメリカは日露戦争の講和を仲介したことで発言権を増し、満州への進出を意図し始めていた。
 ロシアが再び南下する恐れを感じ、アメリカが侵出してくることも想定されたので、実力者伊藤博文、外相小村寿太郎、参謀総長山県有朋等は早期に足場を固める必要を自覚し、伊藤博文はみずから特命全権大使として韓国に赴き、皇帝と内閣に面談して第2次日韓協約を強制して保護国化を実行、そして小村寿太郎は清国に赴き袁世凱等と交渉して満州に関する日清条約を締結、ドイツ権益の継承その他を認めさせた。

アメリカとの対立

 日露戦争の勝利を足場に、日本が南満州鉄道経営権を得たことは、中国大陸進出の機会をうかがっていたアメリカ(とその資本家たち)を刺激した。アメリカで鉄道王といわれたハリマンは、南満州鉄道の共同経営を申し出て、桂太郎首相とその合意に達し、1905年10月に桂=ハリマン協定の仮協定を締結することに成功したが、小村寿太郎などの強い反対で破棄されるという事件があった。その後もアメリカは門戸開放を主張して満州進出を強めたので、日本は日露協約を締結して、昨日の敵であったロシアと今日は手を結ぶという転換を遂げた。

Episode 首相のお忍び旅行

 日露戦争後、桂太郎内閣に代わって首相となった西園寺公望は、1906年4月14日、極秘に東京を離れ、満州に向かった。それは戦後の課題であった「満州経営」にあたる上で、この目で実情を知りたいと考え、一国の首相が自ら実情調査にあたった前例がないため、大蔵次官若槻礼次郎の随員の一人として完全にお忍びで参加することにしたのだった。西園寺が直接見たいと思ったのは日本の侵出に対する清国人の感情、現地でのイギリスなど列強の反応であった。<原田勝正『満鉄』1981 岩波新書 p.43-47>

南満州鉄道株式会社の設立

 西園寺公望首相は帰国後の5月22日、首相官邸で伊藤、山県、井上、松方らの元老、主要大臣、陸海軍の首脳らを集め「満州問題協議会」を開催、伊藤博文が提案して、満州支配は軍政ではなく、また官設機関でもなく、民間の鉄道企業の方式を採るのがよいと結論づけた。児玉源太郎は軍政を強く主張したが、伊藤、西園寺らは国際情勢から見てそれはできないと判断した。その結果、同1906年年6月7日、勅令第142号で「南満州鉄道株式会社」設立の件が公布された。7月には児玉源太郎大将が設立委員長に任命された。児玉源太郎は台湾総督を兼ねていたが、そのもとで台湾民政長官を務めていた後藤新平が初代社長として招聘された。台湾植民地支配の児玉―後藤コンビが、南満州鉄道株式会社という民間会社を通して、実質的に植民地支配(この段階では満州はまだ中国の主権下にある)を進めようという体制が始まった。この「満鉄」といわれた鉄道会社は、これ以後、日本の中国大陸進出で最も重要な役割を担うこととなる。1907年4月1日、旅順~長春間の満鉄本線に安奉線(日本軍が朝鮮国境の安東と奉天を結ぶ軍用鉄道として敷設していた)を加え、南満州鉄道株式会社は営業を開始した。

狭軌から標準軌への改築

 満鉄にとって最初の課題は、全線のゲージを標準軌に改築することだった。日露戦争勃発とともにロシアの東清鉄道南満支線を広軌から日本国内と同じ狭軌に改築するために、野戦鉄道提理部が編制され、その苦闘によって戦争を優位に進めることができたのであるが、戦後に満鉄に引き継がれた際、ゲージは広軌でも狭軌でもない、標準軌とすることが決まったのだった。標準軌とは鉄道は始まったイギリスで用いられていたもので事実上国際標準となっており、中国本土や朝鮮ではすでにそれが普及していた。そのため満鉄も戦争中の狭軌ではなく、標準軌に変更するとされたのだった。
 満鉄の社員の多くはかつての野戦鉄道提理部員であったが、彼らは自分たちが敷設した狭軌を、今度は標準軌に付け替えるという工事を大急ぎでやらなければならなかった。しかも、営業を止めないでゲージを変更するという離れ業を強いられた。満鉄はその難工事を1908年5月までにやり終え、満鉄全線は標準軌に改築された。 → 鉄道のゲージに関しては鉄道の項を参照

Episode 狭軌用車両の告別式

(引用)5月31日、大連郊外の周水子に狭軌車両が集められ、その「告別式」が挙行された。これらの狭軌車両は満鉄が野戦鉄道提理部より引き継いだものであり、機関車217両、客車157両、貨車3727両、その全長は実に30キロにもおよび、周水子・金州間の狭軌引き込み線に収容された。これらの狭軌車両は再び対馬海峡を渡って日本に送還され、日本国内の鉄道各線において使用されることになっていた。満鉄社員、在留邦人、軍人など約3000人がこの「告別式」に参列し、満鉄国沢理事が代表して告別の辞を読んだ。……声涙ともに下る国沢理事の告別の辞に、参列者一同は、日露戦争以来の野戦鉄道提理部ならびに満鉄によるゲージ改築工事の労苦に思いを馳、満鉄が「血と金であがなった日露戦争の代償」であることを内外に明らかにしたのであった。<井上勇一『鉄道ゲージが変えた現代史』1990 中公新書 p.120-121>

中華民国と満鉄

 その後中国では、列強による中国植民地化が進み、それに対する清朝の上からの改革による近代化政策も失敗、孫文らの民族運動が活発になる中、1911年に鉄道国有化政策反対運動を契機に清朝打倒の運動が急速に盛り上がって辛亥革命の勃発となり、翌年正月、中華民国が誕生した。
日本の二十一カ条要求要求 しかし、国内の動揺が続き、軍閥が割拠するなどの状況の中で、第一次世界大戦が勃発、欧米列強が中国から後退すると、日本の帝国主義的侵略が活発になった。
 1915年1月、日本は中国の袁世凱政府に対し、二十一カ条の要求を提示し、山東半島のドイツ権益の継承とともに、関東州における旅順・大連の租借権、南満州鉄道の経営権などの99ヵ年延長などを要求した。中国の袁世凱政府はそのほとんどを認めたが、中国民衆の中に強い反発が生じ、五・四運動に見られる民族運動が激しくなった。
関東軍 日本は南満州鉄道の経営権などの利権を守るために1919年、関東軍を設置、この軍事機関が次第に巨大化して満州利権を守る軍事力となり、日本の中央の政府の統制から離れて軍事行動を展開、満州事変、満州国設立へと向かっていく。

張作霖と張学良

 満州は奉天軍閥の張作霖が押さえていたが、国民政府の蔣介石の北伐軍が北京に迫ったため、張作霖は北京から根拠地の奉天に戻ろうとした。1928年6月4日張作霖爆殺事件が満鉄線の奉天近郊で起こった。これは北伐で窮地に立った張作霖を倒し、満州で有利な状況を作ろうとした関東軍の謀略事件であった。関東軍の軍事行動の背景には満州の張作霖が南満州鉄道の利権を奪取する動きを強めたことも挙げられている。
 張作霖の息子張学良は、1928年12月29日に青天白日旗を満州全域に掲げる易幟を実行した。しかし、南京の国民政府の介入に不満を持ち、独自の支配権を樹立することをめざし、翌年7月、軍事行動を起こして東支鉄道を占領、ロシア権益を継承していたソ連から継承権を奪還しようとした。そかし近代装備を持つソ連軍に敗れ、12月、張学良はハバロフスクでソ連との間で東支鉄道の現状維持に同意せざるを得ず、こうして東支鉄道はソ連がその経営権を維持することとなった。
鉄道ゲージの違い 張学良による東支鉄道の利権回収が失敗したことによって、満州の北部はソ連が経営する東支鉄道、南部は日本が経営する南満州鉄道という、大きく分ければ二系統の鉄道が運用されるという状況が続くこととなった。しかも東支鉄道はシベリア鉄道と同じ広軌、南満州鉄道は中国本土と同じ標準軌であったので、相互乗り入れはできなかった。因みに日本国内の鉄道は、標準軌よりも狭い狭軌だった。

満州事変

 さらに1931年9月柳条湖事件で南満州鉄道が爆破されるという事件が起こると、関東軍は全面的に軍事行動を展開し満州事変で満州各地を占領した。現在ではこの事件は関東軍の謀略であったことが明らかになっている。ここから日本の中国侵略が本格化し、日本は東北地方に「満州国」を建てた。

満州国

 1932年3月満州国が成立すると、南満州鉄道以外の東支鉄道(旧東清鉄道)は、実質的に満州国とソ連の両国共同経営となった。しかし日本はその全線を満州国側に引き渡すことを要求、日ソの交渉が始まった。満州事変に原則として不干渉の立場であったソ連も、実質的な日本の北進を警戒したが、ナチス・ドイツの台頭というヨーロッパ情勢の悪化もあってアジアでの日本軍との衝突は回避することとなった。東支鉄道譲渡問題は1年9ヶ月の交渉の末、1935年3月23日、日ソ間で東支鉄道譲渡に関する協定が成立、ソ連は1億4000万円で満州国に売却し、満鉄にその経営は委託されることになった。
 その際、満鉄は標準軌であったので、シベリア鉄道と同じ広軌であった東支鉄道の軌道を転換しなければならないことであったが、満鉄はただちにゲージの改築にとりかかり、長春・ハルビン間は翌年8月31日までに転換工事を終え、東支鉄道本線の満州里―綏芬河も37年6月までに完了した。こうして満州は標準軌の鉄道網で統一され、満鉄の特急「アジア号」は大連からハルビンまで直通運転されることになった。<井上勇一『鉄道ゲージが変えた現代史』1990 中公新書 p.215>
 これによって満鉄が満州国内の基幹鉄道路線すべての経営権を獲得したことは、満州国の支配が満州全土に及んだことを意味し、それは同時にソ連と国境を挟んで対峙することとなり、満州国の防衛にあたる関東軍の重要性が増したことで、その力量を試したいという雰囲気が生じた。1938年の張鼓峰事件と翌39年のノモンハン事件は関東軍とソ連軍の軍事衝突であり、特に後者が関東軍が大きな損害を被ったことは、日本が南進に向かう契機となった。

満鉄の終わり

 1945年8月8日、ソ連は対日宣戦布告を通告、9日未明に一斉に満州国に侵攻した。このとき満鉄の経営は55路線、総計1万1479kmに及んでいたが、8月15日の日本の敗戦により関東軍が壊滅、ソ連軍のザバイカル第一軍団司令官コワリョフ大将の管理下に入った。その後の混乱で運行は途絶えがちだったが、それでも約200万人におよぶ残留日本人の帰還のために走り続けた。
 終戦の前日の8月14日、中華民国政府とソ連政府の間で中ソ友好同盟条約が締結され、ソ連は旅順・大連の使用権と旧東清鉄道の権益の継承を認められ、その結果、満鉄の全路線も中ソ両国の合弁会社で運営されることとなった。9月22日、国民政府は蔣経国を長春に派遣して中華民国交通部長春弁事処を設置、ソ連からはカルギン将軍が着任して、ここに満鉄は40年にわたる歴史を閉じた。
 しかしその後、国共内戦で国民党政府が敗れ、1949年10月1日に中華人民共和国が成立、翌年2月、中ソ友好同盟相互援助条約が締結されて、旧満鉄の全路線は中国側に引き渡され、現在まで標準軌のまま運航されている。