租界
1845年の上海に始まる、治外法権を持つ外国人居住地域。清朝が開港場に租界を設け、日清戦争後に急増した。外国が共同で管理する共同租界、それぞれ単独で支配する租界があった。中華民国による統一が進むにつれて利権回収運動が進み、徐々に中国に返還され、日中戦争中には連合国が蔣介石政権に対し返還した。
租界とは、中国の開港場において、一定の地域を租借した外国が行政・警察権を行使する地域のこと。本来は単なる土地貸与に過ぎなかったが、不平等条約によって治外法権・領事裁判権を得た列強は、その土地を事実上支配するようにした。1845年の上海のイギリス租界に始まり、19世紀末に列強が清朝から天津、漢口、広州などに多くの租界地を獲得していく。上海の租界はイギリスに続き、フランスは1849年にイギリス租界と旧上海城内にはさまれた地域を租借、アメリカも1853年に虹口地区を租借した。1863年にはイギリスとアメリカの租界は、「共同租界」となった。19世紀末に確定した上海租界の面積は、共同租界が約22.60平方キロ、フランス租界が約10.22平方キロ、合計すると、東京の杉並区(33.5平方キロ)より少し狭い地域というということなる。租界は上海以外にも設けられ、第二次世界大戦まで存続した。<丸山昇『上海物語』1989 集英社刊 後に講談社学芸文庫 p.24 など>
清朝末期の20世紀初頭になると利権回収運動が始まり、租界の回収を求める声も強まった。同時に租界は中国の官憲が及ばないため、革命運動の拠点ともなり、また微妙な衝突事件なども起こって国際政治の舞台となっていった。
武漢の租界返還 国共合作の下での国民革命軍が北伐を開始し、武漢に達した。このとき、イギリスは海軍を派遣して武漢のイギリス租界を守ろうとして国民革命軍と衝突し、中国側に死傷者が出た。国民革命軍は武漢のイギリス租界を占領、さらに九江のイギリス租界も占領した。武漢国民政府はイギリスと交渉、1927年1月5日、イギリスは武漢と九江の租界の中国への返還を認めた。これは、イギリスが租界を返還した最初であり、中国の反帝国主義の勝利とされた。
アメリカ・イギリスとの交渉 残るのは治外法権の撤廃と租界の回収であったが、それは日中戦争の進展に伴い中国国民党政府(重慶の蔣介石政権)が連合国共同宣言に加わったことから実現し、アメリカ・イギリスが1942年10月に治外法権・租界の撤廃を宣言した。しかし、イギリスは香港に隣接する九竜半島北部地域の返還だけは拒否した。そのため実際の協定にはで間取り、不平等条約の撤廃(治外法権の撤廃、租界の廃止)に伴う新条約の締結は1943年1月11日に実現した。
日本との交渉 日本は重慶国民政府を認めていなかったので、同様の不平等条約改正交渉は汪兆銘の南京政府との間で進めていた。英米の交渉が香港問題で時間がかかっていたので、それよりも2日早い1943年1月9日に調印していた。直ちに日本軍は日本軍占領下の上海などの租界を軍事占領、実力で解放した。まもなく日本の敗北・南京政府の消滅によって、租界は中国がそのまま回収することとなった。
香港租借地の返還 第二次世界大戦の終結までに、帝国主義諸国が中国に設けた租界はほぼ回収されたが、香港に隣接る九竜地区だけは、イギリスは香港と密接にむすびつているその一部であるとして返還を拒んでいた。しかし、1898年に結んだ99年間の期限が切れることでイギリスも返還に応じて、1997年に領有していた香港島ごと一括して香港返還が実現した。また、1999年には16世紀以来続いていたポルトガルの租借地マカオの返還も実現した。これによって、租界と言われる地域は消滅した。
Episode 「中国人と犬、入るべからず」
上海の租界では外国人は競馬などを楽しみながら優雅な生活を送っていたが、その裏には中国人に対する露骨な差別があった。黄埔江沿いのパブリック・ガーデン(黄浦公園)を初めとする公園が、「中国人と犬、入るべからず」という看板を掲げていたのは、あまりにも有名である。黄浦公園は1868年に完成し、工部局の設けた管理委員会によって管理されたが、開園第一日から入口に警官を立てて、中国人の入園を拒んだ。これに対する抗議の記録は、1881年から始まっている。工部局は中国人に開放した場合、「流行病に伝染する危険がある」として抗議を拒否し続けた。85年、管理委員会は、公園の入口に「中国人と犬、入るべからず」という項目を書いた看板をたてた。悪名高いこの看板がはすされたのは、1925年の五・三○事件、27年の国民革命と、反帝国主義・民族主義の波が高まったのちの1928年7月1日であった。<丸山昇『上海物語』1989 集英社刊 後に講談社学芸文庫 p.42>中国分割の進行
帝国主義諸国による世界分割が進む中で、1898~99年には、日清戦争で敗れて弱体化が現れた中国に対して、イギリス・フランス・ドイツ・ロシアが相次いで進出、中国分割が急速に進んだ。列強はそれぞれ居留民の居住地として租界を設置することを認めさせていった。清朝末期の20世紀初頭になると利権回収運動が始まり、租界の回収を求める声も強まった。同時に租界は中国の官憲が及ばないため、革命運動の拠点ともなり、また微妙な衝突事件なども起こって国際政治の舞台となっていった。
租界回収運動
1920年代に入り、国共合作が成立して反帝国主義運動、ナショナリズの運動が激しくなると、学生・労働者は「租界を回収しよう!」という運動を強めていった。武漢の租界返還 国共合作の下での国民革命軍が北伐を開始し、武漢に達した。このとき、イギリスは海軍を派遣して武漢のイギリス租界を守ろうとして国民革命軍と衝突し、中国側に死傷者が出た。国民革命軍は武漢のイギリス租界を占領、さらに九江のイギリス租界も占領した。武漢国民政府はイギリスと交渉、1927年1月5日、イギリスは武漢と九江の租界の中国への返還を認めた。これは、イギリスが租界を返還した最初であり、中国の反帝国主義の勝利とされた。
租界の回収
1928年6月9日、南京国民政府の蔣介石の率いる国民革命軍が北京に入城して国民政府による中国統一が完了したことを受け、国民政府は諸外国に不平等条約撤廃交渉を要請した。まずアメリカが、軍閥と共産党を倒したことを評価してそれに応じ、1928年7月に関税自主権の回復に応じ、同年末までにドイツ、イギリス、フランスなどがそれに続いた。日本は済南事件の和平交渉が終わっていなかったため交渉が遅れた。アメリカ・イギリスとの交渉 残るのは治外法権の撤廃と租界の回収であったが、それは日中戦争の進展に伴い中国国民党政府(重慶の蔣介石政権)が連合国共同宣言に加わったことから実現し、アメリカ・イギリスが1942年10月に治外法権・租界の撤廃を宣言した。しかし、イギリスは香港に隣接する九竜半島北部地域の返還だけは拒否した。そのため実際の協定にはで間取り、不平等条約の撤廃(治外法権の撤廃、租界の廃止)に伴う新条約の締結は1943年1月11日に実現した。
日本との交渉 日本は重慶国民政府を認めていなかったので、同様の不平等条約改正交渉は汪兆銘の南京政府との間で進めていた。英米の交渉が香港問題で時間がかかっていたので、それよりも2日早い1943年1月9日に調印していた。直ちに日本軍は日本軍占領下の上海などの租界を軍事占領、実力で解放した。まもなく日本の敗北・南京政府の消滅によって、租界は中国がそのまま回収することとなった。
香港租借地の返還 第二次世界大戦の終結までに、帝国主義諸国が中国に設けた租界はほぼ回収されたが、香港に隣接る九竜地区だけは、イギリスは香港と密接にむすびつているその一部であるとして返還を拒んでいた。しかし、1898年に結んだ99年間の期限が切れることでイギリスも返還に応じて、1997年に領有していた香港島ごと一括して香港返還が実現した。また、1999年には16世紀以来続いていたポルトガルの租借地マカオの返還も実現した。これによって、租界と言われる地域は消滅した。