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黄埔条約

1844年、清朝とフランスの間で締結された修好通商条約。フランスに有利な不平等条約であった。

黄埔(こうほ)は広州の近くの地名。アヘン戦争に敗れた清に対して、イギリスが1842年に南京条約を、アメリカが1844年に望厦条約をそれぞれ締結したのを受け、フランスが便乗して清との間に締結した条約。南京条約、望厦条約とほぼ同内容で、不平等条約であるが、フランス人が中国で起こした刑事犯罪はフランスの法律で裁くことを明確に規定している点では、領事裁判権(治外法権)を一歩進めたものであった。
 この時期のフランスは七月王政の時期で、それまで中国に対してはキリスト教布教に重きを置いていたのを、イギリスのアヘン戦争に刺激を受けて、経済的進出に転換した。黄埔条約はその現れである。ついで、19世紀後半のナポレオン3世の第二帝政になると、インドシナ出兵と併せて中国植民地化への参加を明確にし、アロー戦争を起こし、北京条約で利権を目指すこととなる。
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