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山東省/山東問題

黄河下流、渤海湾と黄海の間の半島。1898年、ドイツが権益を獲得、第一次大戦に乗じ、1915年に日本が二十一カ条要求を中国に認めさせ継承したため、1919年、五・四運動など反日運動が激化した。日本は国際的な非難もあったので、1922年のワシントン会議の結果、九ヵ国条約を締結して、中国に返還された。

 もともと「山東」の地名は太行山脈の東を意味し、「山西」の対をなしていたもので、現在の河北・河南省を含む広い範囲を指していたが、宋の時代の「京東路」が金の時代に「山東路」と改められてから山東の範囲が狭くなり、現在の山東省となった。山東省は黄河下流と山東半島を含む省となっている。
 山東半島は中国本土から北東に延び、渤海と黄海を距てる位置にあり、対岸が遼東半島である。半島中央部は名山として知られる泰山を含む山東山塊がある。黄河は山東山塊を避け、現在は北側を流れ渤海に注いでいるが、かつては半島の南を流れ、黄海に直接流れこんでいた。新石器時代には黒陶で知られる竜山文化が一帯に広がっており、早い時期から文化が形成されていた。周の功臣太公望がこの地に封じられて成立したは、春秋時代には有力になり、斉の桓公春秋の五覇に数えられている。また現在の山東省西部には小国があり、孔子孟子がでた。またそのころ斉の都臨淄には、多くの諸子百家の思想家が集まり、学問の地としても知られたという。
 山東省の海岸は漁業と製塩が盛んである。特に塩は重要な産物であったが、唐の塩専売制に反発して起こった黄巣の乱は、山東省一帯を舞台としていた。その後も、元末に起こった黄河下流で起こった紅巾の乱も山東省に及んでおり、清末の義和団事件も山東省の反キリスト教会の暴動から拡大した。

山東半島の近代

山東省地図
山東省要図
山東省は、清朝末期の外国勢力の中国への圧力が強まる中、あらたな紛争の舞台となった。アヘン戦争によって清は開国し、開港場が各地に設けられていったが、天津条約(1858)で山東半島北側の芝罘(チーフー、当時は登州。現在の煙台)が開港場となった。清朝政府は近代的海軍として創設した北洋艦隊の拠点として、遼東半島先端の旅順とともに山東半島先端近くに威海衛を建設した。しかし、日清戦争で北洋艦隊は壊滅し、威海衛も日本軍に占領された。
英独の租借地獲得 日清戦争で清朝政府の弱体であることが露呈したため、列強は次々と圧力を加えた。それは特定の地域を租借地として認めさせ、一定期間、実質的に支配しようとするもので、イギリスは山東省東部の威海衛を、ドイツは山東半島南側の膠州湾(その湾頭の青島を含む)を獲得した。ロシアは山東半島の対岸の遼東半島の南端、旅順・大連を租借した。ドイツもまた鉄道敷設権や鉱山採掘権などの権益を認められ、山東省を勢力圏としていった。
 20世紀に入り帝国主義諸国間の中国利権をめぐる衝突は、満州をめぐっては日露戦争となって爆発した。その間、列強が獲得していた利権に対して中国民衆の中から利権回収運動が始まり、その運動は次第に民族的な自覚を高め、ついに1911年の辛亥革命で清朝が倒れ、新たに中華民国が成立する。しかし、革命後の実権を握った袁世凱とその後継政権である軍閥政府は、国内の孫文などの第二革命を抑えようとしていたため外国資本の援助を受けてており、外国の要求に妥協し、問題を深刻にしていった。

日本の対華二十一カ条

 このような袁世凱政府の姿勢につけ込んだのが日本だった。第一次世界大戦が始まると、ドイツの権益を奪う好機と考えた日本政府は、日英同盟を口実にドイツに宣戦布告して第一次世界大戦へ参戦、山東半島のドイツの租借地青島に上陸、占領した。翌1915年1月18日、日本政府は二十一カ条の要求を中国政府に突きつけ、ドイツ権益の全面的な継承その他を認めさせようとした。袁世凱政府は日本の軍事圧力を背景とした最後通牒に屈し、1915年5月9日にその大半を受諾したことから、中国民衆の中に激しい反発が起こり、その日は「国恥記念日」とされた。
山東省に関する条約 5月25日には、中国政府は日本との間で、①山東省に関する条約、②南満洲及び東部内蒙古に関する条約の二条約を締結、日本の要求はほぼ実現された。その前者で日本は山東半島の権益を獲得し、後者で南満洲(関東州、後にここを拠点に満州を占領)を獲得し、大陸侵出の足場を築いた。1915年5月25日に締結、6月8日に批准された山東省に関する条約の要旨は次のような内容であった。
  1. 中国政府はドイツが山東省に有していた権益を日本が継承することを承認すること。
  2. 中国政府がドイツが敷設した鉄道を継承する場合は、日本の資本と商談すべきこと。
  3. 中国政府は外国人の居住貿易のために山東省の適当な都市を開放すべきこと。。

山東問題の経緯

 日本が山東権益をドイツから継承したことは、日中間の対立が大きくなるとともに、他の帝国主義列強も関与して、第一次世界大戦後の東アジアの国際問題としての山東問題として続いた。山東問題の経緯は次のようになる。
石井・ランシング協定 日本は山東省などの権益の国際的承認を得るため、まずアメリカと協議し1917年11月2日石井・ランシング協定を締結した。日本はアメリカの主張である中国の領土保全・門戸開放をを認めてその原則を尊重し、アメリカは日本の山東半島などの特殊権益を承認する、という一種の帝国主義国間の分割協定であった。しかし、その後もアメリカは日本の中国大陸侵出を警戒し続けた。
パリ講和会議 1919年 第一次世界大戦後の講和会議であるパリ講和会議で中国代表顧維均は、二十一カ条要求の無効を国際世論に訴えた。しかし、英・仏は日本の大戦参戦の条件で中国大陸での利権拡大に反対しないという密約があったため、中国の要求を取り上げず。ヴェルサイユ条約でも日本の山東省権益継承が認められた。
五・四運動 このヴェルサイユ会議の決定に中国民衆が強く反発し、1919年5月4日、北京をはじめ中国各地で民衆が抗議行動に立ち上がった。この五・四運動に推され、中国政府もヴェルサイユ条約の調印を拒否した。

ワシントン会議

 ヴェルサイユ条約によって国際連盟が発足したが、アメリカ合衆国はその外交政策の継承の立場から加盟しなかった。しかし、中国大陸と太平洋への関心は強く、ハーディング大統領が提唱して、1921年11月からワシントン会議を召集、日本も会議に参加して国際協調の立場から海軍軍縮についてはワシントン海軍軍備制限条約を締結、中国に関しては九カ国条約の締結に怖じた。
九ヵ国条約 これはあらためて中国の主権尊重・機会均等を約束たものであったので、日本と中国間では「山東半島に関する条約」は破棄され、「山東懸案に関する条約」が新たに締結されて、山東省権益を中国返還した。関連して、日米間の石井・ランシング協定も無効とされた。なお、中国は加わっていないが、太平洋に関する四カ国条約も締結され、それに伴い日英同盟は破棄された。

山東出兵

 蔣介石の率いる国民革命軍北伐軍に対し、軍閥軍は次々と敗北したが、帝国主義諸国はそれぞれ軍隊を派遣して権益の保護にあたった。日本でも積極外交を掲げた田中義一内閣は、北伐に伴う混乱からの日本人居留民保護を名目に1927年5月以後、3度にわたる山東出兵を行った。1928年4月には国民東軍との武力衝突(済南事件)が起こった。日本軍は1929年に撤兵したが、中国での反日感情はさらに強くなった。
POINT  山東問題のポイント  こうして日本の山東半島権益は、1915年の「二十一カ条要求」にもとづく「山東省に関する条約」でドイツ権益の継承権を獲得してから、1922年の「九ヵ国条約」にもとづく「山東懸案に関する条約」によって中国に返還するまで、7年間であった、ということになる。わずかな期間ではあったが、この間日本人は青島を中心で商売などを開始し、居留民としてそのまま残るものも多かった。
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