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紅巾の乱

1351年 元朝の末期に白蓮教徒の起こした民衆反乱を紅巾の乱という。この混乱で元朝が倒れ、反乱の指導者から現れた朱元璋が、1368年に明を建国することとなる。

 1351年の支配のもとで起こった白蓮教信徒を中心とした農民反乱。「白蓮教徒の乱」ともいう。直接的な原因は、元朝政府が黄河で大氾濫が起こったため農民に無償で修復を命じたことに反発した河南省などの農民が、白蓮教のリーダー韓山童を押し立てて反乱を起こしたことに始まる。反乱軍は紅色の頭巾をつけて目印にしたので「紅巾の賊」といわれた。首謀者の韓山童はまもなく捕らえられ殺されたが、その子韓林児が引き継ぎ、反乱はかえって全国に拡がって大勢力となり、各地に呼応する反乱が各地に起こった。紅巾の乱を含む一連の大反乱を、「元末の反乱」と総称する場合もある。
 元末の反乱のいくつかの勢力のなかから登場した朱元璋は、はじめは白蓮教の反乱に加わっていたが、農民だけでなく次第に地主層にその支持を広げるなかで、白蓮教徒への攻撃に転じて反乱を鎮圧する側に廻り、1366年までに反乱を鎮定し、1368年に自ら皇帝となって「王朝」を開いた。
 なお、清末にも白蓮教徒は反乱を起こしており、そちらは一般に白蓮教徒の乱といわれている。また、コウキンという音が同じだが、後漢末に起こった黄巾の乱と混同しないこと。

反乱の背景

 モンゴル帝国のフビライが中国本土を支配する王朝をとしたのは1271年、それから80年が経過し、その漢民族支配は、ほころびが見え始めていた。元朝最後の皇帝となる順帝(トゴンテムル)の時代には、朝廷のチベット仏教保護による寺院建設などで財政が苦しくなり、それを補うために乱発した交鈔は不換紙幣化し、インフレが進行していた。加えて14世紀中頃の中国は天候不順が続き、飢饉によって農民の困窮はますます深刻になっていった。特に黄河が毎年のように洪水を起こし、元朝の治水工事に徴発された農民の怒りは次第に強まっていった。 → 元の滅亡

韓山童の決起

 紅巾の乱の最初の蜂起を指導した韓山童(カンザンドウ)が、反乱軍の精神的紐帯として掲げたのが、白蓮教であった。韓山童は現世に望みを失った農民に対し「天下が大いに乱れたら、弥勒仏がこの世に現れて衆生を救済なさる」と説いて支持を集めた。韓山童は黄河の治水工事現場で苦しむ農民に反乱を呼びかけたため捕らえられて処刑されたが、劉福通らは逃げ延び、韓山童の子どもの韓林児を押し立てて反乱を開始した。彼らは同志の験として紅色の頭巾を身につけたので、「紅巾の賊」あるいは「紅巾の乱」と言われるようになった。五行説で火徳にあたる宋王朝を復興させることを掲げたので紅色の頭巾をつけたという。

Episode 「一つ目の石人」のトリック

 韓山童は黄河の治水工事の現場で、農民を反乱に決起させるために、一つのトリックを思いついた。彼は密かに黄河の旧河道に一つ目の石人像を埋めておき、次のような童謡をはやらせた。
 一つ目の石人があらわれて/黄河を揺り動かし/国中に反乱が起こるだろう
またその仲間の劉福通は、「韓山童は宋の徽宗八世の子孫であるから、彼こそ中国の主となるべきだ」と吹聴した。そして工事人夫たちが川底から「一つ目の石人」が掘りだされると、人びとは韓山童の言うことを信じるようになった。<谷川道雄・森正夫編『中国民衆反乱史』2 宋~明中期 東洋文庫 1979 平凡社 p.193>(今も昔も、「超能力」に騙される大衆心理があると言うことですね)

韓林児

 父親の韓山童が刑死してから、その子韓林児が反乱軍の首領としてかつがれることとなった。韓山童の仲間たちが起こした反乱はたちまちのうちに黄河流域から長江流域に広がった。1355年、韓林児は反乱軍に推されて安徽省で小明王と名乗り、宋という国を建てて皇帝と称して改元、宮殿を建設した。しかし、まもなく元軍の反撃を受けて宮殿を放棄して逃れ、代わって力を付けてきた朱元璋に頼った。朱元璋は白蓮教教団の主として韓林児を迎えたが、次第に白蓮教教団から離れて行き、1366年、邪魔になった韓林児をおびき出し、長江に船を浮かべ、転覆せて溺死させた。

元末の反乱の展開

 紅巾の乱は1351年に白蓮教の秘密結社を率いた韓山童の反乱から始まったが、元朝の統治能力がすでに失われていたこともあって、またたくまに各地に広がった。彼らの多くは白蓮教徒であり、紅巾を目印としていたが、反乱軍すべてが白蓮教徒・紅巾の賊だったわけではない。元末に相次いだ反乱は、東系紅巾軍と西系紅巾軍に分かれており、東系もいくつかの集団に分かれており、朱元璋はその中の郭子興に率いられたグループに属していた。これらの反乱軍は1358年に黄河中流の開封を占領したころが最も勢いがあったが、その後元軍の反撃と、反乱軍内の対立によって群雄割拠する状態となっていった。1360年頃には、南京の朱元璋、江州の西系紅巾軍陳友諒、蘇州の張士誠(紅巾軍ではなく塩商人から反乱を起こした)の三集団がにらみ合う形成となったが、その中から、いち早く白蓮教教団と離脱した朱元璋が、その支持基盤を地主層に移して行き、知識人の儒家の取り込みにも成功して国家権力を獲得することになる。

反乱の性格

 紅巾の乱などの元末の反乱の性格は、かつてはモンゴル人という異民族支配に対する漢民族の自立を求めた民族主義の戦いととらえられていたが、現在ではそのような一面的な解釈は行われていない。戦後の研究が進む中で、農民が反乱に立ち上がったのは、モンゴル人に対する民族的憎悪よりも、階級的な戦いという基本性格が強調されるようになった。それによると反乱の主体は、地主の搾取によって抑圧された農民(佃戸=小作人)であり、それに対して地主は「民兵」や「義兵」を組織して元軍に協力している。

朱元璋の立場

 そのような観点からみれば、朱元璋はどちら側に立っていたのか、が問題になる。朱元璋は当初は紅巾軍に加わっていたことは確かであるが、権力を握った明王朝は地主階級に立脚し、農民を厳しく支配する政権となった。この農民軍から地主政権への転化がいつ、どのように起こったかが中国の学会では「朱元璋の転化問題」という論争になっている。<谷川道雄・森正夫編『中国民衆反乱史』2 宋~明中期 東洋文庫 1979 平凡社 p.198>
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谷川道雄・森正夫編
『中国民衆反乱史』2
宋~明中期 東洋文庫
1979 平凡社