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洪秀全

キリスト教の影響を受けた拝上帝会を結成し、1851年、太平天国を建国し清朝に対する反乱を起こした。一時は南京を首都天京とし、自ら天帝を称したが、郷勇や外国の干渉軍に敗れた。

洪秀全
洪秀全(1814-1864)
 「太平天国」の指導者。広東省花県の客家出身。生い立ちははっきりしないが、たびたび科挙の試験に失敗し、病弱でもあったらしい。病臥中に得た天啓が、キリスト教宣教師から借りた書物の内容と一致したことから信仰に入った。自らエホバ(ヤハウェ)の子で、キリストの弟であると称して、拝上帝会を組織した。その人間の平等を説くわかりやすい説教は農民や貧民層に受け入れられ、広西省に広がった。1850年秋、大飢饉が起きると広西省桂平県金田村で蜂起し、翌1851年1月に「太平天国」と号し国家を樹立、1853年3月には南京を占領して「天京」とし、中国華南一帯を支配した。最後は太平天国に内紛が起こり、洪秀全自身も宮殿で80人の女性に囲まれて生活するなど民心から離れ、64年南京が陥落する前に病死した。

客家の農家の三男坊、科挙に失敗

 洪秀全は広東省花県の客家である農家の三男坊だった。華北から戦乱を避けて移住してきた漢民族の後裔である客家は、独自の言語と社会習慣を保持し、自立心が強く、教育にも熱心な家系が多かった。洪秀全もそのような客家の特質を強く受け継いでいたようだ。村の塾では英才の誉れ高く、1828年、満14歳の時に科挙の県試と府試を受けた。その後も科挙の試験に何度か挑戦したがいずれも失敗した。合格は実力次第といいながら、実情は役人による不正が行われていたようで、洪秀全も社会に対する深い疑念を持つようになった。

洪秀全の夢

 1837年、三度目の科挙に失敗した洪秀全は、宿で40日間も熱にうなされていたとき、不思議な夢を見た。それは「天上の至尊の老人」から世の中の不正と戦い、妖魔を倒すための印と宝剣を与えられ、さらに「おまえの長兄だ」となのる中年の男から、悪魔をやっつける助けを受けた、というのである。その後、家に帰って何の気無しに、以前科挙を受験に広州に行ったとき、路上で見知らぬ男から手渡された『勧世良言』という薄い本を手にとって読み始めた。そして、そこに書かれた至上の絶対神エホバが自分の夢に出てきた老人であり、キリストが中年の男であることを悟り、自分はエホバの子でキリストの弟であり、この世の悪と戦うために生まれてきたのだ、と思うようになった。この『勧世良言』は、中国に最初にプロテスタントのキリスト教を伝道したイギリス人ロバート=モリソンが漢訳した聖書を、その弟子の梁発という人がわかりやすく解説した書物であった。かつて洪秀全にこの本を手渡したのも梁発自身だったと思われる。

拝上帝会をつくる

 洪秀全は1843年、4度目の科挙試験(府試)に失敗し、村に帰って塾の教師となり、村人を教えながら、唯一絶対の存在である上帝に従い、偶像崇拝などの蒙昧を捨て去り、社会の不正と不平等と戦う決意を固め、拝上帝教をはじめた。故郷での布教ははかどらず、翌年、広西省桂平県紫荊山に移り、同志の馮雲山と合流し、1846年までの間に宗教団体としての拝上帝会を組織し、盛んに孔子像や土地神などの偶像破壊運動を展開した。そのような中で、1848年頃、楊秀清に上帝が乗り移って(天父下凡)、洪秀全を「天下万国の真主」であるとの告げがあったされ、洪秀全の宗教的権威が確立した。

金田村での挙兵

 1850年秋、拝上帝会信徒は広西省金田村に集結して、その地で挙兵、その後各地で自警団(団練)や清朝正規軍と本格的な戦争に入った。こうして洪秀全の行動は、清朝政府に対する反乱であり、新たな権力を樹立する方向に向かうこととなり、その新たな拠点を求めて、金田村を出て広東省からさらに北東に向かい、南京を目指すこととなった。

太平天国の樹立

 1851年1月、洪秀全は男軍・女軍の規律を布告し、3月には自ら天王と称し、そのころ国号を太平天国と定めた。秋には忠実な信徒を選んで五人の王とし、国家としての態勢をめざした。1853年3月、ついに南京を占領し、入城式を果たして天京と改称、首都と定めた。年末には天朝田畝制度を公布するなど、太平天国の理念の実現を図った。 → 太平天国の項を参照

Episode 洪秀全の死 曽国藩の改竄

 1864年5月、曽国藩の湘軍、外国人指揮の常勝軍などの総攻撃を受け、城内の食糧も枯渇するなか、洪秀全は病が進行し、6月1日に病死した。服薬を頑固に拒否し、死の二日前には天王として、「朕はただちに天国にのぼり、天父天兄から天兵を得て、天京を守る。」の最後の詔を下した後だった。同1864年7月19日、天京は陥落した。
 そのとき曽国藩は洪秀全の屍も掘り出したが、「棺を使わず、竜を刺繍した黄金色の緞子を全身にまとい、禿頭で髪はないが、白髪を交えたあごひげがあったという。曽国藩は清朝政府への供述書で、嘘をついた。洪秀全の死は湘軍の猛攻を前に服毒自殺をしたと改竄したのだ。病死よりも自殺に追い込んだ方が、湘軍の功を高めることが出来るからである。<小島晋治『洪秀全と太平天国』初版1987 岩波現代文庫版 2001刊 p.274>