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光復会

清朝末期の1904年に上海で結成された、清朝の打倒を目指す革命派団体。浙江省出身の日本留学生を中心に、1905年の中国同盟会に合流したが、まもなく指導者の章炳麟と孫文が対立し、分離した。1907年前後、浙江省で武装蜂起したが鎮圧された。章炳麟はその後も独自の革命思想家として活躍した。

 清朝戊戌の変法が保守派の妨害によってつぶされた後、20世紀に入って最後の改革とも言われる光緒新政に取り組んだが、実権は漢人官僚の袁世凱に集中して専制政治の傾向が強まり、民衆の不満はさらに強まっていった。そのような中、各地に清朝打倒・満洲人政権打倒を公然と掲げる革命団体が結成されていった。それは地域的に結集する傾向が強く、広東出身者は孫文を中心に興中会を、湖南出身者の黄興、宋教仁、陳天華らは華興会を結成した。

浙江派の革命集団

 その中の一つが光復会で、浙江省出身者が多かったので浙江派ともいわれる。最初の指導者章炳麟は浙江省出身の学者で康有為らの変法運動に加わり、戊戌の政変で弾圧されたことから革命運動に身を投じ、戊戌の変法の康有為の清朝のもとでの立憲政治を実現させようとする運動と決別し、明確に清朝=満洲人支配から漢民族を解放することを目指して運動を開始した。清朝政府の追及から逃れて1902年に日本に渡って東京で活動し、そのもとに日本に留学してきた浙江省出身の青年があつまり、後の光復会の母体となった。1903年に章炳麟が清朝政府によって逮捕され入獄、翌年、日露戦争が勃発した1904年に、上海で章炳麟の思想的影響を受けた蔡元培を会長に正式に光復会が発足した。光復とは漢民族の栄光を復活させることを目指したことから名付けられた。他に熊成基、陶成章、秋瑾(女性)らがいた。蔡元培は開明的な知識人であり、後に北京大学学長となり五・四運動を支援した人物である。浙江省紹興の出身であった若き日の魯迅も日本留学中に章炳麟の直接の指導を受け、影響を受けて光復会会員となった。

中国同盟会に参加

 1905年8月20日、東京に亡命中の孫文は革命運動の統一を図り、興中会を中心として、黄興らの華興会との合同して中国同盟会(中華革命同盟会)を結成、光復会もそれに参加した。これは中国最初の本格的政党であり、孫文を総裁に選出、彼が提唱する三民主義を指導理念とし、本格的な清朝の打倒と漢民族の復興を掲げ同時に近代的な統一国家を目指すこととなった。
 1906年に出獄した章炳麟は再び日本に渡り、中国同盟会に加入し、機関紙『民報』の編集人となり、革命派の言論の先頭に立った。日本の社会主義者幸徳秋水・堺利彦らとともに、イギリスの植民地支配を受けているインドの独立運動などの欧米の圧迫に対するアジア民族の抵抗との連帯をを主張する帝国主義反対の論陣を張るようになった。日本政府は『民報』の発行を禁止、章炳麟は裁判に訴えたが敗訴した。

女流革命家・秋瑾

 女性革命家として有名な秋瑾(しゅうきん。官僚の家に生まれ、富豪の妻となったが離婚し、1904年秋、単身日本に留学、渋谷の実践女学校に学びながら婦人参政権運動に参加した。思想家章炳麟の影響を受けた革命集団の光復会が結成されるとただちに参加して、激しい気性で反清朝運動を呼びかけた。帰国してから故郷の浙江省紹興に戻り、その地で同じく光復会のメンバーの徐錫麟らと革命組織をつくり、秋瑾は大通学校の教師としてはたらきながら秘かに武装蜂起の機会を待った。1907年、同志の徐錫麟が安徽省で巡撫(警察署長)を射殺したことから一気にことが動き、大通学校も警官に取り囲まれて戦闘となった。結局武装蜂起は失敗、秋瑾は首謀者として捉えられ、1907年7月15日に斬首された。その鮮烈な生涯については、武田泰淳が『秋風秋雨人を愁殺す』(1967)で、徐錫麟の死と共に描き、論評している。
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書籍案内

西順蔵・近藤邦康編訳
『章炳麟集』
1990 岩波文庫

武田泰淳
『秋風秋雨人を愁殺す』
2014 ちくま学芸文庫