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黄興

清朝打倒をめざす革命集団、華興会を組織し武装闘争を指導した。1905年、日本に亡命中に孫文の中国同盟会に加わる。1911年、武昌蜂起に加わって辛亥革命の指導者の一人となる。袁世凱独裁に反対し、第二革命を起こしたが失敗。

黄興

黄興 梅屋庄吉の子孫が所蔵する写真
Wikimedia Commons

 湖南省の出身で、1904年の華興会結成に参加し、その会長として革命運動の指導者となる。「湖南では長沙の学者の家に育ちながら、豪胆で武勇にすぐれ、激しい軍事訓練を経験してきた黄興が華興会を組織していた。西太后の還暦祝賀式場に集まる湖南全省の要人を爆弾でもって皆殺しにしようという計画が発覚し、黄興らは1905年5月、日本に亡命してきた。」<貝塚茂樹『中国史下』岩波新書1970 p.154>
 黄興は「中国の西郷隆盛」ともいわれた豪傑肌の人物で、華興会を結成した仲間には、後に日本に留学中に留学生取締規則に抗議して自殺する陳天華や、頭脳明晰で知られ、後に国民党結成の中心となって袁世凱に暗殺される宋教仁らがいた。また黄興は、革命の方法としてかつてのタイへ太平天国にならってまず拠点となる一省をとり、そこから各省を呼応させていくことを考えた。そこで彼は秘密結社の哥老会の首領と山奥の洞窟で密かに会って話をつけ、1904年11月に長沙で蜂起する計画を立てたが、計画が漏れて失敗し、日本に亡命することになった。

中国同盟会の結成

 同じく日本に亡命していた孫文は、興中会華興会光復会を加え、反清朝の民族運動団体を統一し、中国同盟会を結成することを提案し、黄興もそれに賛同してここに中国最初の本格的な政党が発足、孫文を総理に選び、綱領には孫文の唱える三民主義を採択した。黄興は副総理格の庶務幹事となった。

Episode プライド高い革命家と豪傑肌の革命家の喧嘩

 中国同盟会の結成は中国革命の過程で重要な歴史的段階となったが、結束は不安定で、広東出身者の多い興中会、湖南出身者が占める華興会、浙江出身者からなる光復会のそれぞれの地方的な基盤の違いが大きかった。また自らを「世界でも有名な革命家」と思っているプライドの高い孫文と豪傑肌の黄興は仲が悪く、例えば中国同盟会の党旗のシンボルをめぐって、黄興は人々に土地を平等に分ける井田制を理想としていたので「井字旗」を提案したのに対し、孫文は興中会で最初から掲げている青天白日旗以外にはあり得ないとして黄興案に反対し「私は南洋で数万人からこの旗のもとに願いを託された。これを廃止するというなら、私を倒してからにしろ」と黄興を激しく罵った。怒った黄興が中国同盟会を脱退するとまで言い出す一幕があった。<菊池秀明『ラストエンペラーと近代中国』中国の歴史10 2005初刊 2021講談社学術文庫>

辛亥革命の口火を切る

 長沙蜂起に失敗して宋教仁らとともに日本に亡命した黄興は、東京で孫文らと中国同盟会を結成した。1911年に黄花崗の蜂起に失敗したが、ついで武昌蜂起に加わり、辛亥革命(第一革命)の突破口を開いた。辛亥革命の混乱から袁世凱が権力を握ると、その独裁化に反対した。1913年、第二革命を起こすも失敗し、その後は孫文の個人崇拝的な傾向があった中華革命党には加わらず、孫文とは袂を分かってアメリカに亡命した。