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北京条約(清-英仏)

1860年、アロー戦争の結果、清が英仏と結んだ条約。天津弱の条項を変更、追加した。

 アロー戦争(第2次アヘン戦争)の講和条約として1858年に締結された天津条約の批准書交換のため、1860年、北京に向かったイギリス・フランスの使節が、清側の大沽砲台から砲撃され、追い返されるという事件がおこった。
 イギリスとフランスは、報復と称して連合軍を北京に侵入させ、清朝政府に圧力をかけた。その際、英仏軍は北京郊外の円明園を焼き討ちし、略奪行為を働いた。清朝皇帝の咸豊帝は熱河に逃亡し、残った清朝政府との間で交渉が行われ、天津条約は批准され、新たに北京条約が締結された。

天津条約の変更と追加

 10月24日に締結された内容は、天津条約に変更を加えさらに英仏に有利にしたものであった。その主な内容は次の通り。
  1. 賠償金を800万両とする(天津条約より増額した)。
  2. イギリスに九竜半島南部を割譲する。
  3. 天津条約で開港場とされたところに加えて天津を開港場とする。
  4. 中国人の海外渡航の解禁。
  5. 開港場以外でのキリスト教布教許可を明文化。
ここで割譲された九竜半島南部は、南京条約で割譲された香港とともにイギリス領香港の一部となった。この北京条約は、南京条約が中国の半植民地化の第1弾、天津条約が第2弾であるとすれば、第3弾にあたり、さらに権益を拡大することとなった。なお、アメリカとロシアも同様の条約を締結したが、特にロシアとの北京条約では、ロシアに沿海州を割譲した。

中国人の海外渡航解禁

 4.の中国人の海外渡航解禁によって、中国人の海外移住、つまり華僑の増加をもたらすこととなった。華僑の中には、アメリカ大陸に渡る者(実態は人身売買であった)も多く、ちょうど南北戦争が終わりアメリカ合衆国憲法改正で1865年黒人奴隷制が廃止されたため、黒人奴隷に代わる労働力として、大陸横断鉄道建設などで使役された苦力となっていった。

内地でのキリスト教布教

 5.で開港場以外の内地でキリスト教の布教の自由が認められたことによって各地にキリスト教教会が建てられていったが、その際、宣教師側にも中国人感情を無視することもあって、民衆による教会襲撃事件が頻発するようになる。それは仇教運動といわれ、19世紀末に山東省で最高潮に達し、そこから義和団事件へと発展していく。
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