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苦力/クーリー

アメリカ工業発展の労働力とされた中国人、インド人などアジア系労働者。

 苦力は「クーリー」と読む。アメリカ合衆国で黒人奴隷制が廃止され奴隷売買が出来なくなった後に、発展期に入った鉱工業や鉄道建設で労働力となったのが、インド人移民や中国人などの移民であり、彼らは苦力(クーリー)と言われた。特に中国人移民が多く、もともとインド人を指す言葉であったクーリーには「苦力」の文字があてられて彼らを指す言葉となった。
 中国ではアヘン戦争の結果として締結された1842年南京条約によって開国し、外国との自由貿易が始まり、さらにアロー戦争(第2次アヘン戦争)の結果として1860年に清朝がイギリス・フランスと締結した北京条約で、中国人の海外渡航が解禁となったため、中国人は安価な労働力として海外に出て行くこととなった。

アメリカ大陸横断鉄道建設の労働力

 彼らは移民として徴募されたが、その多くは暴力的に拉致した若者を強制的に移民契約を結び、契約労働者として送り込むものであって、厦門や香港から太平洋を横断する移民船にすし詰めになり、アメリカ大陸ではゴールド=ラッシュ時代の鉱山や大陸横断鉄道1869年完成)の建設現場で苛酷な労働に従事した。これは苦力貿易といわれ、それに従事する中国人貿易商の中には巨財を蓄えた者もいた。
中国人移民の排斥 1860~80年代にこのようなクーリーが増加したが、特にカリフォルニアでは安価なクーリー労働力に仕事を奪われた白人労働者の間に中国人排斥の運動が強まり、1882年には中国人労働者移民排斥法が作られる。代わって日本人がアメリカ大陸への移民が急増する。 → 華僑  移民(アメリカ)  移民(帝国主義時代)

マリア=ルース号事件

 1872(明治5)年、横浜港に入港したペルー船籍のマリア=ルース号から、中国人苦力が脱走し、日本の官憲に保護を申し出た。時の神奈川県権令大江卓が検査したところ、同船はいわゆる苦力貿易の船であることがわかり、中国人苦力が奴隷同様に売買されている実態が明らかになった。大江は違法な奴隷売買にあたるとして中国人苦力の解放を命じた。この事件で苦力貿易の実態が国際社会にも知られ、清朝政府も移民保護に乗り出し、このような非人道的な苦力貿易は次第に行われなくなった。 → マリア=ルース号事件
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