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段祺瑞

中国の軍閥安徽派の首領。袁世凱後の中国の実権を握り、日本と結び政権を維持しようとした。

 だんきずい。1916年、袁世凱が死んだ後、黎元洪が大総統となったが、実権を握ったのは国務総理の段祺瑞であった。北洋軍閥は袁世凱の死後、段祺瑞の「安徽派」と馮国璋の「直隷派」に分裂し、抗争していた。1917年5月には、溥儀を担いで清朝の復活(復辟という)を目指した張勲のクーデタを武力で抑え、実権を握った。

第一次世界大戦への参戦

 段祺瑞は袁世凱に続き、日本と結びつき、1917年8月14日にドイツに宣戦布告し第一次世界大戦に参戦した。その意図は日本を含む連合国との結びつきを強め、立場を強化することにあり、また日本も段祺瑞政権を参戦させることで、イギリス・アメリカに対し、対華二十一カ条要求の要求権益を認めさせようという狙いがあった。

西原借款による援助

 このように日本と結んだ段祺瑞政権は、参戦費用に充てるという名目で、日本から巨額の資金援助を受けた。それは日本の寺内正毅首相の個人的な代理人西原亀三を通じての借款だったので西原借款といわれ、総額1億4500万円にのぼった。他の軍閥はイギリスやアメリカの資金援助があったので、外国勢力が軍閥にテコ入れして有利な権益を得ようとしたためであるが、内戦の費用ばかりでなく、段祺瑞周辺に私的に流用された疑いが強い。
 このような北京の軍閥政権が帝国主義列強と結んで中国の主権が蝕まれていくことに強い危機感を抱いた孫文は広東で、臨時約法を守る「護法」をスローガンにかかげて北京政府に対抗することを決意、1917年9月10日に自ら大元帥となって広東軍政府を樹立した。両者の戦いは「護法戦争」と言われ、広東軍政府は中華民国の中で、初めて北京政府に対抗する政権として戦ったが、内部にも地域対立などがあり、安定して維持することは出来なかった。
 しかし段祺瑞の日本寄りの姿勢は国民の反感を買い、国内の安定を望む民族資本家の支持もないまま孤立し、1918年には総理を辞任した。その後の北京政府は軍閥の抗争が続き、中国は実質的には軍閥の割拠する分裂国家となる。

日本の政局と西原借款問題

 巨額の西原借款は日本でもやがて大問題となった。この借款は1917年から徐々にはじまり、最後には総額1億4500万円に膨れ上がり、段祺瑞とその北京政府の混乱が続いたため、貸し付けた金は回収できずに焦げ付き、しかも日本それにみあう権益を得ることはできなかった。寺内正毅内閣は、1918年8月、シベリア出兵を開始、そのため国内で米価が騰貴の危惧が広がり、米騒動が起こった。それを収束できずに寺内内閣は総辞職、9月に代わって原敬内閣となった。原内閣は直ちに10月、「中国の南北争乱を助長する借款、資金供与を差し控える方針」を閣議決定した。結局、西原借款は回収の見込みのないまま打ち切られ、銀行の損失は国家が補填、つまり国民の税金から穴埋めするということになった。
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