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政治協商会議

1946年1月に中国で開催された国民党、共産党などが国家統一をめざす会議。しかし両者の対立から同年6月には国共内戦となる。共産党の勝利後の1949年9月、人民政治協商会議に姿を変え、1954年まで存続した。

国民党、共産党がともに参加

 中華民国で、抗日戦争勝利後の中国の統一をめざす新たな政治形態をさぐるべく、1946年1月10日重慶において、中国国民党中国共産党、他に民主同盟、中国青年党、無党派代表などが集まって開催された会議。略して「政協」という。党派別構成は、国民党8人、共産党7人、民主同盟9人、中国青年党5人、無党派9人であり、共産党が多数を占めているのでは無かった。
 その前年の8月末から重慶で開かれていた中国国民党蔣介石と、中国共産党毛沢東の会談は、意見の隔たりが大きく難航したが、ようやく10月に合に達し、双十協定を締結、内戦の回避、「政治協商会議」の開催で合意し、「和平建国綱領」など五項目決議が採択され、統一が前進するかに見えた。この双十協定の合意によって成立したのが政治協商会議であり、日中戦争に勝利した後の新たな中国の国家の枠組みを作る、重要な会議であった。

政治協商会議の成果

 政治協商会議(政協)では国民政府の抱える問題点が出され、国民党の主導権を制約する方向で次のような合意が成立した。
  • 国民政府には国民党以外の共産党などの政党も参加して、連合政権的な政府とされた。国民党は当初、閣僚の4分の3を占める原案を提示したが、修正され、半数に限定された。
  • 憲法制定国民会議の代表も国民党案が修正され、既に選出されていた約900人に加え、新たに約1100人を追加選出することとなった。
  • 憲法改正の原則は、実質的に立法院を議会に、行政院を内閣とする三権分離の方針が確定された。
  • 軍隊の脱政党化は民主同盟などが軍人の即時党籍離脱の方針を提出したが、国民党・共産党共に反対したため、最終的には軍隊内の政党活動が禁止されたにとどまった。
 この政治協商会議の合意で妥協を強いられた国民党の内部に強い不満が生じた。また国民党・共産党がそれぞれ別個の軍隊を維持することとなったため、統一政権とはいえない実態はそのまま残った。<久保亨『社会主義への挑戦』シリーズ中国近現代史④ 2011 岩波新書 p.6>

国共内戦の再開

 しかし、国民党側はこの協定を無視し、共産党員や他の民主的党派に対するテロを各地で継続した。一ヶ月後の2月10日に開催された政治協商会議成功祝賀会には国民党の特務機関が送り込んだスパイが民衆を煽動して共産党員を襲撃する事件が起きるなど、一触即発の状態が続いた。この間、国民党支配下では物価が騰貴し、混乱が続いたため民衆の支持は次第に遠のいたのに対して、共産党支配地域では小作料を減免したり、土地改革が進めらていったことで民衆の支持が高まっていった。結局両党は各地で衝突をくり返し、ついに1946年6月26日、蔣介石が共産党支配地域への総攻撃を指令して国共内戦に突入した。 → 人民政治協商会議

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書籍案内

小島晋治・丸山松幸
『中国近現代史』
1986 岩波新書

久保亨
『社会主義への挑戦』
シリーズ中国近現代史④
2011 岩波新書