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人民政治協商会議

1949年9月、決裂した政治協商会議にかわり、国共内戦の勝利によって共産党が召集した全中国の代表者会議。中華人民共和国の樹立を決議。1954年までは国会の役割をもっていた。

 正式には、「中国人民政治協商会議」。略して政治協商会議ということもあるが、決裂する前の政治協商会議とは区別する必要がある。国共内戦に勝利した共産党は、決裂していた政治協商会議に代わり、新たに1949年9月に新たに中国人民政治協商会議を招集し、共産党以外の党派も加えて、中華人民共和国の樹立を決議した。それは毛沢東新民主主義論に基づいて、発足した国家機構であった。

形式的には現在も存在

 人民政治協商会議は、1954年に全国人民代表会議(全人代)が中華人民共和国憲法を制定するまで、国会の役割を持っていた。また、その後も政府に対する諮問機関として存続(文化大革命の時期には開催されなかったが)しており、現在も形の上では共産党以外の国民の諸団体の代表(民族代表、海外華僑代表を含む)による統一戦線の機関として機能している。
 現在の人民政治協商会議は、あくまで協商組織であり、実質的な権力や政策決定権は持たない。現在、会議には共産党とは異なる民主党派とされるほぼ1941~48年にうまれた次の8つの組織が加わっている。組織、構成メンバー、メンバー数を示すと次のようになる。
・国民党革命委員会 国民党左派 約4万
・中国民主同盟 中、上層の知識人 約9万9千
・中国民主建国会 経済界の専門家 約5万
・中国民主促進会 教育、文化、科学界 約4万8千
・中国農工民主党 医学、衛生、科学技術界 約4万6千
・中国致公党 帰国華僑、華僑家族 約1万
・九三学舎 科学技術、医学、文教界 約4万5千
・台湾民主自治連合 台湾出身者 約1200
 1989年の第2次天安門事件が起こり、続いて同年の東欧革命で東ヨーロッパ社会主義国で一党独裁が倒され多党制が導入されたとき、中国はこれらの組織が存在することから「中国共産党指導下の多党制」であると言っていたが、実際には民主党派は政治組織とはいえず、全国でも地方でも議会(人民代表大会)に代表を送ることは出来ない。要するに擬似的政党なのであって、中国共産党に対抗することは不可能である。<毛利和子『現代中国政治を読む』世界史リブレット51 1999 山川出版社 p.31>
 中国は人民政治協商会議があっても、民主主義国家とは言えず、中国共産党の一党独裁国家であることには変わりはない。
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毛利和子
『現代中国政治を読む』
世界リリブレット51
1999 山川出版社