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日米交渉

太平洋戦争の前、1941年4月から同年12月8日の開戦までの間に行われた交渉。近衛内閣は日米開戦の回避をめざして交渉したが、日本の中国大陸・東南アジアへの侵略をめぐる見解の溝は埋められず、次の東条内閣は軍の主張に沿って開戦を前提として交渉した。

 日本の近衛文麿内閣(第2次)とアメリカのフランクリン=ローズヴェルト大統領は、日米開戦を回避するための交渉を、1941(昭和16)年4月16日から、日本側は駐米大使野村吉三郎らとアメリカ側の国務長官コーデル=ハルらとの間で、約50回にわたって行った。しかし、結局、合意に至らず、同1941年12月8日に日本側が真珠湾を攻撃したことによって打ち切られた。 → 日本と第二次世界大戦

日米の主張

 複雑な交渉過程は省略し、日米双方の最終的な主張をまとめると、次のように要約することが出来る。
日本側の主張
  1. アメリカ政府の斡旋で日中戦争を解決する。
  2. 一定地域の「防共駐兵」をのぞいては、日本軍は中国から撤兵する。
  3. 「北部仏印」以外の東南アジアにこれ以上の「武力進駐」をしない。
  4. アメリカは「満州国」を承認する。
これに対するアメリカの主張は
  1. 日本軍の中国大陸からの撤兵
  2. 「南進」政策の放棄と「北部仏印」からの日本軍の撤兵
  3. 「防共駐兵」「満州国」問題は別に話し合う(無条件ではない)。
であった。つまりアメリカは、日本軍の中国・北部仏印からの全面撤退を絶対条件とし、防共駐兵と満州国については条件をつけて認めようというものであるが、日本側は「満州国」を放棄することは出来ない、というのが譲れない線であった。ということは、中国と北部仏印からは撤退を約束し、満州国については交渉の対象とする、という点で妥協すれば日米開戦は回避されたことになる。しかし、日本の国論のなかに「満州国」は日清・日露戦争以来の日本人が血を流して獲得した生命線である、という意識が強く存在したため、それは実現出来なかった。結局、満州国を守ろうとして太平洋戦争に突入、そのため、台湾・朝鮮その他を失い、本土も占領されるという全面敗北に至ることになったと言える。

日米交渉の暗礁

 日米交渉が難航している間に、再び大きな戦局の変化が起こった。それは1941年6月の独ソ戦の開始である。陸軍大臣東条英機らは、この機をとらえて交渉ではなく武力に訴えるべきであると主張し、7月に南部仏印進駐を強行した。この交渉中の軍事行動に対し、アメリカは硬化し、さらにアメリカのフィリピン、イギリスのマレー半島とシンガポール、それにオランダ領インドネシアにとって脅威となることであったので、日米交渉は完全に暗礁に乗り上げた。
 アメリカは7月25日に対抗手段として在米日本資産を凍結し、さらに8月1日、対日石油輸出を禁止した。日本側はそれをABCDラインによる日本包囲網として宣伝し、国民の敵愾心を煽ったが、具体的方策を欠いていた。内閣の一部には中国からの撤兵を実行して日米交渉を再開すべしという意見もあったが、東条陸将は軍の士気が落ちるとして反対し、ついに近衛内閣は閣内不一致で辞任、東条英機内閣に替わった。
 東条内閣は11月5日の御前会議で、11月末までに日米交渉がまとまらない場合は開戦に踏み切ることを決定した。

ハル=ノート

 1941年11月26日、アメリカ国務長官ハルは、日米交渉におけるアメリカ側の提案を示した。それは「ハル=ノート」と言われており、日本にとって厳しい内容であった。まず、両国交渉の原則的な前提として、
 ①一切の国家の領土保全および主権の不可侵原則。
 ②他の諸国の国内問題に対する不干渉原則。
 ③通商上の機会および待遇の平等原則。
 ④紛争の防止および平和的解決のための国際調停に対する準拠原則。
の四原則をあげ、今回の交渉で日本側が譲歩すべき具体的な点として、次の4点を挙げた。
 ①上記四原則の無条件承認。
 ②仏印および中国からの全面撤兵(ここでいう中国に満州国を含むかどうかは明記されていない)。
 ③重慶政府=蒋介石政権だけを認めること。
 ④日独伊三国同盟の無効化。
 ハル=ノートは11月26日に日本側に手交されたが、日本側は御前会議で11月末日までに交渉がまとまらなければ開戦に踏み切ると決定していたのであって、ハル=ノートの条件を知って開戦を決断したのではなかった。想定通りの回答であったので、予定通り開戦に踏み切ったというのが正しい。
 なお、アメリカ政府には、三ヶ月の休戦期間を設け、石油輸出の一時解禁と南部仏印からの撤退を条件に交渉を継続する一案もあったが、これは蔣介石政府とイギリスに強く反対されて取り下げ、代案としてハル=ノートが浮上したと、野村大使の報告は述べている。日米交渉にも日中戦争が強く影響していた。<黒羽清隆『太平洋戦争の歴史』2004 講談社学術文庫 などによる>

日米開戦の決定

 ハル=ノートは、アメリカ側は最終提案とはいわず、交渉の素材としての一提案にすぎないと伝えたが、日本側はこれを最後通告と受け止めた。アメリカ側もこの提案を日本が受け入れなければ開戦はやむを得ないと考えていたようだが、アメリカとしてはできるだけ時間を稼ぎ、開戦となった場合には日本側にまず攻撃させるよう仕向けることが合意されていた。ハル自身も27日にスティムソン陸軍長官に電話して「私は交渉から手を洗った、あとは君とノックス(海軍長官)の仕事だ」と伝えた。
 ハル=ノートを受けとった東郷茂徳外相はもはや手の打ちようもないと感じ、日米交渉は打ち切りとした。12月1日に御前会議が開催され、アメリカ・イギリス・オランダに対する開戦を決定、翌2日に統帥部はすでに準備を整えていた陸海軍司令官に、12月8日開戦を意味する「ニイタカヤマノボレ」の電報を打電した。
 日本軍が開戦に踏み切った最大の理由と、戦略は次のようなものであった。アメリカなどによる経済封鎖によって鉄、石油などの資源が入ってこなくなり、特に石油備蓄は後最大2年分しかない。それを打開するにはボルネオ、スマトラなどの油田を獲得するしかない。東南アジアへの海軍による武力進出はアメリカ海軍に妨害される恐れがある、それを事前に排除するためにハワイのアメリカ海軍基地を破壊しておく必要がある、というものだった。この戦略は、連合艦隊司令長官山本五十六がすでに1939年9月以来、検討を重ねていた。山本はアメリカとの戦争はできる限り避けなければならないが、開戦となればハワイ奇襲しか勝算はないと考えていた。しかし、よく知られるように山本は戦えるのは2年間であり、それ以上戦うことになれば敗戦となるだろうと予測していた。
 連合艦隊はこの戦略に基づいて、すでに開戦の準備を進めており、ハワイを奇襲する航空艦隊は、南雲忠一の指揮のもと、11月22日に千島の択捉島に集結し、26日、つまりハル=ノートが提示された日にハワイに向けて出撃していた。日本軍はハル=ノートの内容の如何にかかわらず開戦を決意していたのだった。<中村隆英『昭和史』上 1993 東洋経済新報社 p.298-301 などをもとに構成>
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黒羽清隆
『太平洋戦争の歴史』
2004 講談社学術文庫

中村隆英
『昭和史(上)』
1993 東洋経済新報社