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日本軍のフランス領インドシナ進駐

援蔣ルートの遮断を狙った日本軍が1940年9月にフランス領インドシナ北部(ベトナム北部)に進駐。日本軍の南進を警戒するイギリス、アメリカとの対立が深まり、41年7月に日本軍はさらに南部仏印進駐を実行し、対立は太平洋戦争での日米全面対決に発展する。

 日中戦争蔣介石国民政府重慶に撤退して抵抗を続けたため長期化した。この重慶政府に対しては、イギリス、フランス、アメリカが背後からの幾つかの援蔣ルートを造り、武器・食糧などを支援を続けていた。日本軍は日中戦争の打開策として、援蔣ルートの中で最も重要であった、北ベトナムのハイフォンと中国南部の昆明を結ぶ鉄道を利用したルートを遮断するため、フランス領インドシナ連邦(仏印)進出をねらっていた。それは、ヨーロッパでの第二次世界大戦の勃発、ドイツ軍のフランス占領という展開を受けて、日本軍の1940年9月の北部仏印進駐で実行に移され、次いで41年7月の南部仏印進駐が行われてそれが日本とアメリカ・イギリスの対立を決定的にし、太平洋戦争へと転化していく要因となった。

南進論の採用

 1931年の満州事変以来の日中戦争は泥沼の状態に陥り重慶に立てこもる蔣介石政権を追い詰めることができないでいた。陸軍は伝統的に北進論が主流であり、ソ連を仮想敵国として関東軍による満州の防備は最大の兵力を投入していたが、1939年のノモンハン事件でソ連軍の近代装備の前に敗れ頓挫していた。そのため、兵力を満州からインドシナなどの南方に移し、援蔣ルートを遮断することによって日中戦争の停滞を打開し、あわせてフランス・オランダがドイツに敗れた機会に、日本にとって必要な石油、天然ゴム、鉄鉱石、ボーキサイトなどの資源の豊かなその二国の植民地を獲得しようという、南進論が強まった。
 南進論はアメリカを主要な敵とすることになるため、陸軍の一部や海軍には否定的な意見も多かったが、40年5月、ドイツ軍がフランスを占領したことで決定的な転換がなされた。南進論に傾いた陸軍は、アメリカとの対決を避けたい米内光政内閣(海軍出身)にたいし、陸軍大臣の交代を押しつけ、軍部大臣現役武官制によって内閣を倒し、次の第2次近衛内閣に南進論者東条英機を陸軍大臣に送り込んだ。この内閣はフランス領インドシナ進駐と日独伊三国同盟結成に踏み切り、日本を太平洋戦争に向かわせる判断をした。

北部仏印進駐

 ヨーロッパで1939年9月、第二次世界大戦が始まり、1940年5月にドイツの進撃によりフランスが降伏し、傀儡政権のヴィシー政府ができると、日本は援蔣ルートの遮断を要求した。ヴィシー政府には拒絶する力は無く、日本軍(大本営陸軍部)は1940年9月23日にベトナムのハノイに進駐した。日本では北部仏印進駐といっているこの軍事行動は、第二十二軍の一個師団によって行われ、若干の戦闘はあったが、ほぼ無血で「進駐」した。
援蔣ルートの遮断 フランスのヴィシー政府は、すでに本国をドイツ軍に占領されており、抵抗ができなかった。援蔣ルートはベトナムのハイフォンに陸揚げして、雲南を経由して重慶に運んでいたので、日本軍の北部仏印進駐で遮断されることになった。中国、アメリカ、イギリスは、日本軍が南進の姿勢を示したことを強く警戒するようになった。
日独伊三国同盟の締結 日本軍の北部仏印進駐の4日後の9月27日、日本政府は日独伊三国同盟に調印した。これによってドイツ・イタリアと枢軸国を形成することとなり、三国のいずれかの国が、三国以外の一国に攻撃された場合は他の二国はただちに政治的・経済的・軍事的に相互協力することを約束した。明らかにこれはアジアにおいてはアメリカを共通の仮想敵国とするものであった。アメリカはすでに日米通商航海条約の破棄を通告していたが、さらに鉄屑などの資源の対日輸出をストップした。また援蔣ルートはビルマ=ルートで再開した。12月に大統領として三選されたフランクリン=ローズヴェルトは日独伊三国同盟への明確な対抗姿勢を示した。
タイの失地回復 インドシナ半島でイギリスとフランスによって東西から圧迫されて苦境に立っていたタイピブン政権は、フランスの弱体化を「失地」の回復の好機ととらえ、かつてフランスに割譲したメコン川右岸の返還を求めた。ヴィシー政府が拒否したことでタイ軍は1941年1月、カンボジアに侵攻した。日本はこの時仲介に乗りだし、ヴィシー政府に圧力を加え、泰の要求に応じさせ、タイとの良好な関係を作った。
日米関係の悪化 悪化した日米関係の修復のため、アメリカの国務長官ハルと日本の駐米大使野村吉三郎の間で日米交渉が行われたが、両者の見解には隔たりが大きく、進捗しなかった。そのころ、ヨーロッパでは1941年6月、独ソ戦が開始されるという戦局の転換が起こった。その機会を捉え、交渉を打ち切って実力で打開すべきであるという主戦論が台頭することとなった。

南部仏印進駐

 日米両国は戦争の回避に向けて交渉を重ねたが、主張の差は埋まらなかったが、その交渉の一方で、日本軍はフランスのヴィシー政府に対する圧力を強め、インドシナへの勢力拡張を進めた。「インドシナ共同防衛」を名目とする軍隊派遣を認めさせ、1941年7月28日、日本軍第25軍はフランス領インドシナ南部(ベトナム南部のサイゴン=現在のホーチミン市を含むメコンデルタ地帯)に進駐し、さらにカンボジアラオス全域に展開した。
 日本軍がフランス領インドシナに進駐したことで、日本はゴムなどの資源を獲得できたとして、英米の経済封鎖による物資不足にあえぐ国民に対して侵略の正当性を宣伝した。
アメリカの対日石油輸出禁止 日本軍の南部仏印進駐は援蔣ルートを完全に遮断し、さらにイギリス・オランダの植民地資源を直接脅かすこととなった。この侵略行為に対して、アメリカは日米交渉の決裂前に日本が軍事行動を起こしたとして硬化し、さらにイギリスはマレー半島、シンガポールなどを脅威にさらされることになるので強く反発した。8月、アメリカは対日石油輸出を全面的に禁止する措置にでて、イギリスも同調し、日本側はそれを、いわゆるABCDラインによる包囲網として宣伝し、その打破という日本の軍事行動の口実とした。
 ついに1941年12月8日の真珠湾攻撃から太平洋戦争開戦に至り、日本は第二次世界大戦に参戦、同時にアメリカの第二次世界大戦参戦となり、文字どおりの世界戦争へと拡大した。

ベトナム民族運動の動き

 ベトナムはフランスの植民地支配から解放された形になったので、一部の宗教団体などに日本軍に協力する動きはあったが、多くはフランスに代わる新たな軍事支配者としての日本に対する反発を強め、ただちに抵抗運動が起こった。1941年5月、ホー=チ=ミンらの指導するベトナム独立同盟(ベトミン)が結成された。日本軍支配下のベトナム北部では、米が日本に強制移送されたため食糧不足となり、北ベトナム大量餓死事件が起きている。 → ベトナムの独立 
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