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黄埔軍官学校

1924年、中国国民党と中国共産党の国共合作(第1次)の一環として開設された軍の幹部養成学校。蔣介石を校長とし、周恩来が政治部主任となった。出身者は国民革命軍の中核となった。

 1924年6月に開校式を挙行した、孫文の指導する中国国民党が設立した軍幹部を養成する学校。黄埔は広州から40キロの地点。孫文自らが学校の総理となり、校長にはソ連視察から帰国した蔣介石が任命された。国共合作(第1次)のもと、国民党からは左派の廖仲凱が党を代表し、共産党からは周恩来が政治部主任となり、葉剣英らが教官として加わった。その他、中国国民党からは胡漢民、汪兆銘が、中国共産党からも政治教育の教官を務め、ソ連の赤軍出身者も軍事指導に加わり、赤軍にならった訓練が施された。

蔣介石が校長に

 孫文は「ロシア革命が成功し、中国革命が依然失敗し続けているのは何故か?」と問い、その答えを「中国に革命軍がなかったからだ」と考え、国共合作がなり国民党を改組するにあたり、革命軍の組織化を掲げた。その目的で前年、蔣介石をソ連に視察に派遣した。蔣介石を校長に任命し、ソ連からの資金と武器援助を受けた。<野村浩一『蔣介石と毛沢東』アジアの肖像2岩波書店 1997 p.12>

ソ連の支援で開設

 黄埔軍官学校の設立には200万元の資金、8000丁に上る銃砲や大量の弾薬の許与など、ソ連の大きな援助があった。その他、多くの教官が派遣された。ソ連の支援は1924年以降本格化し、1926年までに5回に上った。<藤村久雄『孫文』1994 中公新書 p.121>
 この黄埔軍官学校は2年足らずのうちに約2300名の幹部を養成し、彼らは1925年8月に編制された国民革命軍の将校となっていった。

青幇との結びつき

 黄埔軍官学校の1期生募集には500人の収容人員に対し、3000人も集まった。この応募者の多くは、孫文も、ソ連から派遣された政治顧問ボロディンも気付かなかったが、実は青幇の構成員であった。青幇とは上海を拠点とした裏社会に隠然とした力をもつ秘密結社で、租界を舞台にアヘンの取引などで利益を得ており、ボスの杜月笙(とげっしょう)は国民党右派との結びつきが強く、一説によると蔣介石も若い頃はその一員だったともされている。おそらく蔣介石の指令を受けて、選抜作業を行ったのは陳果夫という青幇の幹部で蔣介石が「面倒を見ていた」人物であった。士官学校に合格したのは陳果夫が組織の力で集めた若者であったのであり、後に総計7000人にものぼる士官候補生は青幇の隊伍から送り込まれたのだった。<S.シーグレーブ/田端光永訳『宋家王朝(上)』2010 岩波現代文庫 p.313
 後にはこの黄埔軍官学校卒業生を中心(戴笠ら)として、国民党蔣介石系の特務機関「藍衣社」がつくられ、陳果夫、陳立夫兄弟の「C・C団」とともに、国共内戦時代に共産党員に対する白色テロが行われる。<小島晋治・丸山松幸『中国近現代史』岩波新書 p.150>
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書籍案内

菊池秀明
『ラストエンペラーと近代中国』中国の歴史 10
2005 講談社 

S.シーグレーブ田端光永訳
『宋家王朝(上)』
2010 岩波現代文庫