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シベリア

ロシアのウラル山脈東部の広大な森林地帯。ツァーリの専制時代・ソ連スターリン時代には反体制運動で逮捕された者の流刑地とされた。その一方で、16世紀から毛皮資源などを求めて進出が盛んになり、清朝との国境策定でによってロシア領を拡張し、大陸の東端に達し、19世紀末にシベリア鉄道の建設に着手した。

 現在のロシア領、ウラル山脈の東部、オホーツク海に至る広大な土地。ほとんどが寒冷な土地で北部はツンドラ地帯、他は大部分が針葉樹林帯で豊かな毛皮の産地であり、南部に農耕可能地があった。13世紀以降、モンゴル帝国の領土となり、15世紀には西シベリアはモンゴル系のキプチャク=ハン国、ついでシビル=ハン国が支配していた。シベリアの名は、この国名に由来する。16世紀からロシア(モスクワ大公国)の進出が始まり、主として毛皮を求めて、エニセイ河口まで到達した。

イェルマークの遠征

 モスクワ大公国イヴァン4世(雷帝)の時、イェルマーク1581年コサックを組織してシベリア遠征を開始、翌年シビル=ハン国を滅ぼした。イェルマークは征服した地をイヴァン4世に献上し、モスクワ大公国領がウラル以東のシベリアの地に及ぶことになった。次のロマノフ朝の17世紀以降はさらにロシア人の東シベリアへの進出が盛んとなり、特に毛皮商人の活動はしばしばアムール川を越えたので中国の清王朝と衝突することとなった。

ロシアと清の国境策定

 1689年、ロシアのピョートル1世と清の康煕帝は、初めての国境協定であるネルチンスク条約を締結し、スタノヴォイ山脈からアルグン川の線を国境とした。これは現在のロシア・中国国境から見ればかなりロシア側に食い込んでおり、清側に有利なものであった。しかし1858年アイグン条約では黒竜江(アムール川)北岸はすべてロシア領とされ、さらにアロー戦争に際して、1860年北京条約で、沿海州はロシア領とされ、ロシアのシベリア全域の支配が確定した。1860年、ロシアはウラジヴォストーク(東方を支配せよ、の意味)を建設、日本海進出の足場とした。
 → シベリア鉄道 シベリア出兵

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書籍案内

加藤九祚
『シベリアに憑かれた人々』
1974 岩波新書

加藤九祚
『シベリアの歴史(新装版)』
2018 紀伊國屋書店