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日ソ基本条約

シベリア出兵から撤退した日本が1925年、ソ連を承認して締結した。ドイツ、イギリス、フランスについて国交を結び、経済関係の好転を期待した。満州をめぐる対立関係は続いたが、1931年の満州事変でソ連が動かなかった背景ともなった。

 1925年1月20日、北京において調印された、日本とソ連の国交を樹立させた条約。日本はソヴィエト連邦を正式に承認し、ソ連は旧ロシア帝国が日本と締結したポーツマス条約の法的な効力(南樺太の割譲など)を承認した。日本は当初、イギリス・フランス・アメリカとともに革命政権を認めず、1918年8月に日本もシベリア出兵を行い、干渉戦争を続けていたが、他の三国が撤退した後、もっとも遅くまで駐留して、1922年にようやくシベリアからは撤退した。北樺太にはなおも占領を続けていたが、この1925年の日ソ基本条約に締結に伴い、撤退した。

日本のソ連承認の背景

 1920年代に入り、日本は大戦中の好景気から一転して、深刻な戦後不況に転じ、さらに1923年には関東大震災に見舞われ、経済に大きな打撃を受けた。加えてアメリカ合衆国が日本の中国進出を警戒して、日本人移民排斥運動とともに日本人移民の制限などの動きをしめしていた。そこで日本政府は、ソ連との国交を樹立し経済関係を結ぶことに方向を転じ、1925年の日ソ基本条約の締結となった。これは加藤高明内閣の時、普通選挙法と治安維持法が成立した年と同年である。

ソ連の状況

 ソヴィエト=ロシアでは反革命干渉戦争に勝利して権力を掌握したレーニン戦時共産主義に代わって1921年3月にネップ(新経済政策)を採用、部分的に市場経済を容認して経済の立て直しをはかった。翌1922年にはソ連邦が成立、ソ連は国際適に承認される時期となっていた。まずラパロ条約でドイツと国交を樹立、その後イギリスは1924年1月、フランスは1924年10月にそれぞれソ連を承認、アメリカは遅れて1933年11月となった。

その後の日ソ関係

 日ソ基本条約で日本とソ連は相互に承認して外交関係を持つこととなり、それぞれ外交官が赴任した。日露戦争以来、日本陸軍はロシアを第一の仮想敵国としていたが、すでに1923年の「帝国国防方針」の改定ではソ連に対する「仮想敵国」という表現をあらため、「親善を旨としてその利用をはかるとともに、常に威圧する実力を備える」ものとしていた。この条約によって、ソ連は日本がロシアから獲得した南満洲の権益を継承することを認めたが、北満洲には東清鉄道(東支鉄道)などの権益を維持していた。<満州をめぐる日ソ関係については山室信一『キメラ――満洲国の肖像』増補版 2004 中公新書 p.42-47 などを参照>
 日本陸軍、特に関東軍はソ連軍に備える軍として対峙したが、1920年代は直接衝突することはなく、比較的平穏であった。またソ連でスターリンが独裁権力を握り、新経済政策をやめて第1次五カ年計画の社会主義経済建設段階に入ると、満州方面は手薄となり、関東軍はその隙を突く形で、1931年9月18日の満州事変を起こした。関東軍は満州全土を一気に後略し、翌年、満州国を建国した。スターリンはこの間、満州国境の軍備を徐々に増強し、しばしば国境紛争を起こすなかで、1939年5月にノモンハン事件で衝突した。日ソ両軍の本格的衝突となり、日本軍は大きな損害を蒙ったが、ヨーロッパでの第二次世界大戦勃発という事態となり、停戦交渉が成立した。
 その後、日中戦争に突入した日本は、その打開のために東南アジアに進出し、それによってアメリカ・イギリスとの対立が深まったため、1941年4月に日ソ中立条約を締結する。両国は領土保全と不侵略を相互に約束したが、日本は一方で日独伊三国同盟を締結していたため、同1941年6月に独ソ戦が始まり、さらに同年末日本が太平洋戦争でアメリカと開戦したため、ソ連はアメリカ・イギリスと連合国を形成することとなり、日本とは敵対関係に入った。日本はなおも日ソ中立条約を通じて事態の打開を図ったが、1945年4月にソ連は不延長を通告、8月8日にソ連の対日参戦が実行され、満州に侵攻した。
 第二次世界大戦後の日ソ国交回復は、戦後の冷戦の中で難航したが、ようやく1956年10月、モスクワで日ソ共同宣言が調印されて実現した。しかし、日ソ間には北方領土問題が残ることとなり、その後の歩みも順調とは言えない状態が続き、ソ連崩壊後も混迷している。