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ヴェネツィア/ヴェネツィア共和国

イタリアの地中海岸の商業都市。十字軍時代から都市共和国として繁栄し、14世紀に最盛期となる。1797年、共和国は消滅しオーストリア支配下に入り、1866年にイタリアに併合された。

 英語の発音ではベニス。伝説では413年に創建されたと言うが、実際は6世紀中ごろ、ランゴバルド人のイタリア侵入の難をのがれ、パードヴァなどから移住した人々が、アドリア海沿岸の潟(ラグーナ)の島に都市を作ったところに始まる。ユスティニアヌス大帝時代以来、ビザンツ帝国の支配受け、その法的関係は長く続くが、次第に港市として発展し、独自に統領(ドージェ)を市民の中から選出して都市共和国(コムーネ)として自立していき、「アドリア海の女王」と言われる繁栄を実現する。

ヴェネツィア共和国の繁栄

 ヴェネツィア共和国は11世紀には強力な艦隊と商船を有し、アドリア海から東地中海、黒海の海上貿易を独占、東方貿易(レヴァント貿易)の中心地として栄えた。東方からは胡椒なその香辛料、織物などを輸入、ヨーロッパからは初めは奴隷、後には羊毛製品を主に輸出した。十字軍時代にはその出港地として船舶を提供、また多くのヴェネツィア商人が同行して利益を上げた。特に第4回十字軍ではヴェネツィアが主導してコンスタンティノープルを占領、その商業的特権を独占して植民国家ラテン帝国を建国し、さらにクレタ島、キプロス島などに植民地を獲得して繁栄の基礎を築いた。
 13世紀末には上層市民が貴族として寡頭政治(少数の有力者が政権を独占する政治)を行う体制となった。13世紀の後半、元朝の中国に大旅行を行い、『東方見聞録』を残したマルコ=ポーロもヴェネツィアの人であった。

14世紀、商業国家として全盛となる。

 1380年には競争国ジェノヴァ共和国を、キオッジアの海戦で破り、地中海の覇権を獲得し、大いに繁栄した。15世紀中頃から東地中海と東側の国境をオスマン帝国に脅かされるようになると、勢力を海上よりも内陸に向けるようになり、ローマ教皇やミラノ公国と争い、イタリアの強国の一つとなる。

Episode ヴェネツィアに始まった常駐外交使節制度

 国家間で互いに外交使節を常駐させるという近代的な外交関係は、1455年にミラノがヴェネツィアに送ったそれが最初のものだと言われている。このような常駐外交使節制度はイタリアの都市国家間に始まり、16世紀には大多数のヨーロッパ諸国間で行われるようになった。特にヴェネツィアは小さな共和国であったが、諸国との間に広範な通商関係を発展させ、また東ローマ帝国と複雑な交渉を持った関係から、その外交技術は他の都市国家に比して著しい発達をとげた。優秀な人材を外交使節に起用して行った巧妙な外交、派遣や接受に際しておこなわれる儀式などはヴェネツィア共和国のそれをヨーロッパ諸国が模倣・移入されたものであり、近代ヨーロッパ外交の起源は中世後期のイタリア半島に発すると言われている。なお、ヴェネツィアの常駐外交使節は、妻の同伴は禁止されていた。これは機密の漏洩を防ぐためであった。また料理人を同伴しなければならなかったが、それは毒殺されることを予防するためであった。<岡義武『国際政治史』1955 再版 2009 岩波現代文庫 p.12-13,註p.302>

オスマン帝国との抗争

 16世紀にはオスマン帝国の進出、フランス、スペインのイタリア戦争の影響などで東地中海の領土と勢力圏を失い、次第に衰退していった。1508年にはローマ教皇ユリウス2世と対立し、フランス王ルイ12世、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世、スペイン王フェルナンド5世がカンブレー同盟をむすび、ヴェネティアと戦った。
 さらにオスマン帝国の艦隊が東地中海に進出してきたことに対し、1538年プレヴェザの海戦でスペイン(カルロス1世=神聖ローマ帝国カール5世)・ローマ教皇との連合艦隊を編成して戦ったが敗れ、地中海の覇権を失った。
 その後、1571年にはスペインと協力してレパントの海戦でオスマン海軍を破って、地中海の海上権を回復したが、15世紀末からの新航路の発見によって世界の貿易の中心が大西洋岸のリスボンなどに移るという、いわゆる商業革命に伴い、地中海の商業都市ヴェネティアは衰退せざるを得なくなった。
 17世紀にオスマン帝国の弱体化が進み、ヨーロッパ諸国がオスマン帝国領に進出するようになると、エーゲ海方面に勢力を有していたヴェネツィア共和国もそれに加わった。オスマン帝国の第2次ウィーン包囲の失敗を受けて1684年に神聖ローマ皇帝レオポルト2世を中心に神聖同盟が結成されると、ヴェネツィア共和国もそれに参加し、1687年にオスマン帝国軍が守るギリシアのアテネを攻撃、占領した。このときオスマン帝国軍がパルテノンを爆破するという事件があった。

オーストリアによる支配

 1797年にイタリアに侵攻したナポレオン率いるフランス軍とオーストリア軍との間のカンポ=フォルミオの和約によってヴェネツィアはオーストリア領とされ、ヴェネツィア共和国は消滅した。  ナポレオン没落後のウィーン会議では、正統主義が理念とされ、ヨーロッパの秩序をフランス革命前に戻す事が原則とされたが、ヴェネツィア共和国とジェノヴァ共和国は復活することはなかった。ウィーン議定書では、ヴェネツィアは旧ミラノ公国と併せてロンバルド=ヴェネト王国となったが、実際にはオーストリアから派遣された総督が直接統治する傀儡国家にすぎなかった。

イタリア統一運動

 19世紀前半のウィーン体制の時代には、ヨーロッパ中の自由主義・民族主義は厳しく弾圧されたが、そのような中でもイタリア統一運動(リソルジメント)が盛んになってきた。それはナポレオン支配の中で、自由や人権の思想が普及した事が背景にあった。
 まず1820年代にナポリやミラノでカルボナリと称する民族派の蜂起があり、続いて30年代以降はマッツィーニ青年イタリアを組織して統一と共和政を目指す運動が本格化した。1848年革命の一連の革命運動はオーストリアにおも及び、ウィーン三月革命メッテルニヒが失脚すると、イタリアではミラノ蜂起に続き、ヴェネツィアでも市民が蜂起し、オーストリアからの解放を目指した。またローマでは教皇が逃亡し、ローマ共和国が成立した。それらの状況を見てサルデーニャ王国カルロ=アルベルト国王は、初めてオーストリアに宣戦(第一次イタリア=オーストリア戦争)した。1849年にかけて、これらの動きは、いずれもオーストリアの軍事力によって弾圧されてしまったが、次第にイタリアの統一という具体的な獲得目標が明らかになっていった。
 1850年代から、イタリア統一をめざす運動の中心となったのは、サルデーニャ王国であった。サルデーニャは首相カヴールが、フランスと同盟を結ぶことに成功し、オーストリアとの間でイタリア統一戦争をしかけ、ロンバルディアとヴェネツィアの解放を目指し優位な戦いを進めた。しかし、この時はナポレオン3世が単独で講和を結んで戦線から離脱したため、サルデーニャはロンバルディアの獲得にとどまり、ヴェネツィアを解放することはできなかった。

イタリアのヴェネツィア併合

 その後、もと青年イタリアのメンバーだったガリバルディが義勇兵を組織し、シチリア島からナポリを制圧して北上し、征服地をサルデーニャ王に提供したことによって、1861年にイタリア王国が成立した。しかし、その時点でもヴェネツィアはまだ含まれていなかった。ようやく1866年の普墺戦争でイタリアがプロイセンを支援してオーストリアが敗れたためヴェネツィア放棄に踏みきり、これによって1866年10月にイタリア念願のヴェネツィア併合が実現した。
 さらに1870年に、ローマなどがイタリア王国に併合され、翌1870年にローマンが首都となったことでイタリア統一は完成したと言うことができる。しかしベネツィアの北部の南チロルと、東に隣接するトリエステは“オーストリア領として残されており、イタリアにとって未回収のイタリア”としてその併合が国家的要求とされることとなる。

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