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重装歩兵(ローマ)

ローマ共和政のもと、ローマ市民が武装し、市民軍を構成した市民兵士。平民(プレブス)が重装歩兵としてローマの半島統一戦争などに参加し、次第に貴族との身分の平等を獲得していった。

 ギリシアの重装歩兵と同じく、兜・鎧・楯を装備し槍を武器とする歩兵。都市国家ローマの平民(プレブス)(農民や商工業者)で、それらの武器を自弁(自分で調達)することのできるものが市民としての権利を得た。前5世紀の中頃、ローマが他の都市国家と抗争したり、北方からのガリア人の侵入と戦ったりするなかで形成されてきたものと思われる。

重装歩兵農民の没落

 ローマ共和政は中小農民が重装歩兵となる「市民軍の原理」によって軍事力を強め、イタリア半島統一戦争を進めていった。その過程で重装歩兵としてローマの軍事力をになった平民はその地位を向上させ、身分闘争を展開した上で前3世紀中頃までにローマ共和政を成立させた。
 さらに、前3世紀から前2世紀のポエニ戦争マケドニア戦争によって地中海世界を制圧し、各地に属州を設けて行くに従い、戦争が長期化と安価な穀物の流入は中小農民の没落をもたらすようになり、彼らが重装歩兵となって市民軍を編制することが出来なくなっていった。

市民軍制から職業軍人制へ

 その弱体化が表面化したのが前111年に起こったユグルタ戦争であった。そのとき執政官となったマリウスは、大胆な兵制改革を行い、職業軍人制に転換することになる。マリウスの兵制改革は、平民に武装義務を負わせて徴兵するのではなく、無産市民を志願兵として募集し、その中から訓練によって職業的な軍人を育成するものであった。これによって徴兵制から広い意味での傭兵への転換ということもできる。


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ローマ帝国の軍隊

ローマ帝国を支えた軍事力は、職業的な軍隊によって構成された。重装歩兵を中心とした軍団は、ローマの対外戦争の戦力となり、その勢力は皇帝選出も左右した。

ローマ帝国の軍団

 紀元前最後の1世紀末から帝政初期を通じて、ローマ軍は軍団(レギオ)を中心に編成された。軍団はほぼ5000人の歩兵からなり、厳しい訓練を受け、装備も行き届いていた。それぞれの軍団は百人隊(ケントゥリア)に分けられ、下級士官の百人隊長が指揮を執った。6個の百人隊で1個の歩兵大隊(コホルス)を編成し、10個のコホルスが1軍団を形成した。軍団の兵士はおもに短剣と投げ槍で戦い、楯とよろいかぶとで防備した。彼らは職業軍人としての意識が高く、十分な訓練を施され複雑な作戦を遂行した。また道路や砦、橋の建設などにも従事した。
 軍団の兵士はローマ市民(ローマの住民の意味ではなく、ローマ市民権を持つものの意味)のみが徴募され、共和政時代には土地や資産を持つものが自費で装備を調えていたが、前2世紀のマリウスの兵制改革から、都市の無産市民からも志願兵を募った。
 軍団と並んで重要な補助部隊は、ローマ市民以外から徴募され、500~1000人でコホルスを編成し、ローマ人の士官の指揮に従い、多くは例えばシリアの弓部隊のように専門化していた。補助部隊は軍団兵士より従軍期間が長く、給料も少なかったが、退役に際してローマ市民権が与えられた。
 前31年にローマの内戦(内乱の1世紀)が終わったとき、60もの軍団があったが、アウグストゥスはそれを28に減らし、軍事力の必要な辺境に駐留させた。それでも兵士数は30万人にものぼり、その費用は国家支出の大きな部分を占めた。帝政初期には軍団の兵士には年に900セステルティウスの給料が支払われたからである。兵士の従軍期間は20年で、入隊時は結婚を禁止されていた。

ローマ軍隊の変質

ローマ帝政期の軍隊

『ローマ帝国―地図で読む世界の歴史』河出書房新社 p.88より

 五賢帝時代が終わって2世紀末に登場したセプティミウス=セウェルス帝(カラカラ帝の父)は、1世紀末のドミティアヌス帝以来、1世紀ぶりとなる兵士の給料の引き上げを実施し、しかも軍団の兵士の結婚を認め、兵営の外での家族との生活を許した。こうした容認は兵士の忠誠心を高めたかも知れないが、ローマ軍の機動力と柔軟性が失われた。
 セプティミウス=セウェルス帝は権力を握る際と、それを維持するにあたり、軍隊の力に大きく依存した。その対外戦争も、軍隊に勝利の栄光とともに略奪品を与える必要から行われた面が強い。軍隊の中の皇帝親衛隊は、皇帝の政治を支える大きな力となり、彼らは自分たちに最も高い給料を払ってくれるものを皇帝としてするため、不都合な皇帝を殺害するなどの不法を犯すようになり、いわゆる軍人皇帝時代が到来する。
 3~4世紀には、ローマは新しい敵(ササン朝ペルシアゲルマン人)と戦うため、戦略と軍隊組織の改変に迫られた。軍団の歩兵にかわって、3世紀半ば頃から機動力のある騎兵隊が創設され、戦術は一変した。コンスタンティヌス帝は軍隊を正式に辺境軍と遊撃隊に分け、双方に騎兵と歩兵を配属した。4~5世紀には、遊撃隊は職業軍人からしだいにゲルマン人の傭兵が中心となり、ローマ市民兵は減っていった。<以上、クリス・スカー/吉村忠典監修『ローマ帝国―地図で読む世界の歴史』1998 河出書房新社 p.60-61 を要約>

ローマ軍隊の「蛮族化」

 ローマ帝国の辺境にあったゲルマン民族などが盛んに領内に侵攻してくるようになった4世紀には、ローマ帝国の正規軍そのものを構成する諸部隊が、ローマ人からゲルマン人などの「蛮族」に入れ替りが始まった。彼らは自らの部族のリーダーに率いられて、それぞれ特有の戦争法で戦うようになった。蛮族の将兵が正規のローマ軍諸部隊の中に入り込み、ローマ正規軍が蛮族の装備と戦闘技術を採用するようになった。ローマはゲルマン民族の戦法と戦うには、ゲルマン人を軍人とし、その戦法で戦う方が有効だと考えるようになった。しかし、そのため、ローマ軍としての統一はとれなくなり、脱走や裏切りが増えていった。そのような軍隊の蛮族化は5世紀になると帝国西部で特に進み、帝国東部では歯止めがかかった。それが西ローマ帝国は滅亡し、東ローマ帝国は生き残ることとなった。  以上のローマ軍の蛮族化はほぼ定説として説明されているが、研究者によっては史料上のローマ正規軍のなかで蛮族出身の将兵の占める割合は4分の1程度に過ぎず、また蛮族の補充も同一部族から徴集されることはなかったので、蛮族部隊が集団アイデンティティを持ち続けたことはないとして、否定する見方もある。ただしローマ正規軍がゲルマン人騎兵の戦術を取り入れるようになったことは確かとされている。西ローマ帝国の滅亡を、ローマ軍の蛮族化だけにもとめるのは正しくないと思われる。

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クリス・スカー/
吉村忠典監修/矢羽野薫訳
『ローマ帝国
地図で読む世界の歴史』
1998 河出書房新社


ハリー・サイドボトム
『ギリシャ・ローマの戦争』
1冊でわかるシリーズ
2006 岩波書店