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アレクサンドリア(エジプト)

アレクサンドロス大王がエジプトに建設した都市。プトレマイオス朝の首都。ヘレニズム時代に経済、文化の中心都市として繁栄した。

現在のアレクサンドリア GoogleMap

 エジプトのアレクサンドリアは、前331年アレクサンドロス大王が各地に建設したアレクサンドリアの中で、最も繁栄した都市。
 その後アレクサンドリアは前304年に成立したプトレマイオス朝エジプトの都となり、東地中海と紅海を通じてインド洋の南海貿易を行い、巨額の富を得ていた。その富を都市建設に投じ、ヘレニズム世界の中心として文化的にも大いに繁栄し、「世界の結び目」と言われた。また「アレクサンドリアにないものは雪ばかり」という言葉もある。ローマ時代からビザンツ帝国時代を通じて地中海貿易の中心地として繁栄を続けた。

ヘレニズム文化の中心

 アレクサンドリアの港の入口のファロス島には大灯台が建設されていた(古代の七不思議の一つとされている)。また初代プトレマイオス1世はアテネなどから学者を招いて「ムセイオン」(博物館)を建設し、さらに大図書館を設けてエジプト特産のパピルス紙に多くの文献を書写させた。そのため、アレクサンドリアは特に自然科学の面でエウクレイデスエラトステネスアリスタルコスなどヘレニズム時代の多くの科学者を輩出した。

カエサルのアレクサンドリア戦役

 プトレマイオス朝エジプトは前1世紀に内紛が起こりクレオパトラはローマのカエサルと結んで女王の地位に返り咲いた。前48年、アレクサンドリアに上陸したカエサルは、反クレオパトラのエジプト軍と戦い、その時の戦火のためムセイオンは焼け落ちたと言われている。カエサル没後、その後継者争いが起きるとクレオパトラはアントニウスと結んだが、前31年オクタウィアヌス率いるローマ海軍とのアクティウムの海戦に破れて自殺し、プトレマイオス朝エジプトは滅亡した。

ローマ時代のアレクサンドリア

 ローマはエジプトを属州として支配、アレクサンドリアに総督(属州長官)をおいて支配した。ローマ時代にもアレクサンドリアは「地中海の学術センター」としての位置を失っておらず、天動説を体系づけたプトレマイオスや医学のガレノスらがいた。1世紀頃からはユダヤ教とキリスト教の教義研究とギリシア哲学(特にプラトン)の結びつきがアレクサンドリアで始まり、3世紀のエジプト人プロティノスが「新プラトン主義」を産みだし、ローマ帝政時代の思想に大きな影響を与えた。

キリスト教の五本山の一つとなる

 キリスト教は早くからユダヤ人を通じてアレクサンドリアに広がった。アレクサンドリアの教会を創建したマルコはペテロの弟子でその通訳を務め、ペテロから「大切な息子」といわれていた。パウロとも行動を共にし、アレクサンドリアで殉教した後にヴェネツィアに葬られた。「マルコによる福音書」によって福音書著作者の一人とされ、聖マルコといわれている。このようにアレクサンドリア教会は最初の布教の拠点の一つとなり、後にキリスト教の五本山の一つされた。4世紀に三位一体説のアタナシウス派を起こしたアタナシウスもアレクサンドリア教会の司教であった。

イスラーム教の進出

 ところが641年イスラーム勢力がエジプトに侵攻し、アレクサンドリアが破壊されてしまったため一時衰えることとなった。イスラーム征服後に復興しイスラーム商人の地中海方面への商業基地として重要な地位を占め、現在もエジプト第2の都市として繁栄している。
 アレクサンドリアのキリスト教はイスラーム教支配下で細々と続き、エジプトのキリスト教はコプト教会といわれている。聖マルコの後継者とみなされているその大主教は今も存続している。

Episode アレクサンドリアの大灯台

 「1995年11月、エジプトの地中海岸、アレクサンドリアでフランスの考古学者たちが、画期的な発掘に成功した。大きな感動を呼び起こした。感動の理由はいくつかある。まずは、この発掘が、それまでの常識である地下からの遺物のとりだしではなく、地中海の海底を舞台としていたこと。そして、ふたつめには、出現した過去の遺物が、あまりにも有名な古代の名品だったことだ。出現したのは、疑いもなく古代アレクサンドリアの灯台である。」<樺山紘一『地中海』2006 岩波新書 p.46>
 大灯台は古代の七不思議の一つにも数えられており、アレクサンドリアの沖合のファロスという島にあったとされていた。ローマ時代の地理学者ストラボンや、11世紀にこの地を訪問したアラブの地理学者イブン=シュバイルの旅行記などに記録があり、それらによると高さ150mで50マイル遠くからその光を見ることが出来、島の上には巨大なゼウス神像があって地中海の船乗りの目印になっていたという。この灯台は紀元前285年頃、プトレマイオス朝のプトレマイオス1世が建造を初め、2世の時に完成したらしい。ムセイオンと並んでアレクサンドリアの繁栄を物語るものであった。

その後のアレクサンドリア

 近現代では次のような出来事の舞台となった。
ナポレオンのエジプト遠征 1798年7月、ナポレオンは、イギリスのインド支配の中継地としてのエジプトを押さえようと、エジプト遠征を敢行し、アレクサンドリアに上陸した。追撃したネルソンの率いるイギリス海軍とのアブキール湾の海戦で敗れて制海権を失い、フランス軍は撤退するが、この出来事を契機に、エジプトのオスマン帝国からの独立運動が始まる。またこのときアレクサンドリアの郊外でロゼッタ=ストーンが発見され、古代エジプトの文字である神聖文字(ヒエログリフ)が解読されたことはよく知られている。
ウラービー革命 1875年、スエズ運河株を買収したイギリスは、エジプト支配を強めた。反発したエジプト人がウラービーに率いられて1881年、反英闘争に立ち上がった。このウラービー革命に対してイギリスは翌年、アレクサンドリアに砲撃を加えて反乱軍を鎮圧、エジプトを事実上の保護国化の状態に置いた。  
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書籍案内

樺山紘一
『地中海 -人と町の肖像』
2006 岩波新書

野町啓
『学術都市アレクサンドリア』
2009 講談社学術文庫