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ポリビオス

前2世紀、ローマ共和政時代のギリシア人歴史家。コリントの軍人・政治家であったが前168年にローマ軍の捕虜となる。スキピオに保護され、第3回ポエニ戦争に従軍。歴史家としてはローマの歴史を叙述し、政体循環史観を説いた。

 ポリュビオスとも表記。ギリシア人でコリントの軍人であり政治家でもあった。前168年ピュドナの戦い(ローマがマケドニアを滅ぼしたマケドニア戦争の最後の戦い)でマケドニア・ギリシア軍がローマに敗れた後、中立だったアカイア同盟から、人質の一人としてローマに送られた。ローマで人質生活を送るなかで、有力者小スキピオのギリシア語家庭教師となり、第3次ポエニ戦争に従軍。ローマが強大な国家になった理由を知ろうと、ローマ史を研究し、40巻の大著『歴史』をギリシア語で書いた。その書の中で政体循環史観・混合政体論を展開している。

ギリシア人、ポリビオス

 ポリビオス(ポリュビオス)はヘレニズム末期の前200年頃、ギリシアのアカイアに生まれた。そのころギリシアは北方のアンティゴノス朝マケドニアと、独立を維持していたスパルタロードスなどのポリス、ペロポネソス半島のメガロポリスなどの弱小ポリスが結成したアカイア同盟などが対立、抗争していた。ポリビオスはメガロポリスの人で、アカイア同盟の騎兵隊長を努め、また同盟の盟主であったコリントでは政治家として活躍した。

マケドニア戦争

 そのころローマは地中海対岸のカルタゴとのポエニ戦争を戦い、西地中海の覇権を獲得していた。さらに第2回ポエニ戦争(前218~前201年)と並行して、東地中海のアンティゴノス朝マケドニアと諸都市の対立に介入して出兵し、前215~前167年の間に3度にわたるマケドニア戦争が起こった。それはギリシアのロドスとペルガモンがマケドニアの南進を恐れてローマに援軍を要請したことから、ローマがギリシアに介入したことから起こった。ローマ軍がマケドニアを攻撃しマケドニア戦争が勃発、前168年、ピドナ(ピュドナ)の戦いで敗北したマケドニアは滅亡した。

ローマの人質となる

 この戦いの時、コリントとアカイア同盟は、態度を明確にしなかったため、ローマは戦後の同盟の存続の条件として、アカイア同盟の反ローマ派の主要人物1000人を人質としてローマに送ることを強制した。その人質の中にポリビオスも含まれていたのだった。ローマに連行されたポリビオスは、将軍パウルスのもとに拉致されたが、そこで拘留生活を送るうちに、パウルスの息子(後の小スキピオ)と親しくなった。

スキピオとの知遇

 ポリビオスは、軟禁生活中にヘロドトスの『歴史』トゥキディデスの『戦史』などの歴史書を読みふけり、なぜローマは強大と為り、ギリシアは衰退しその支配下に入ったのであろうか、との高札をめぐらしていった。偶然に親しくなったパウルスの息子は、成長して執政官スキピオとなった。スキピオはギリシア語の教師としてポリビオスを遇するようになった。これがギリシア人のポリビオスがローマで活躍することになった経緯であり、その後彼はスキピオに従ってポエニ戦争に従軍した。それらの体験を通して、ローマの強大化した経緯を考察し、大著『歴史』を著して歴史家として名を残すこととなった。<周藤芳幸『物語古代ギリシア人の歴史』2004 光文社新書 p.242->

Episode カルタゴの航海者ハンノの話

 ポリビオスがスキピオに従ってポエニ戦争に従軍した際、カルタゴである古い記録を発見した。それはカルタゴの航海家ハンノという人物の残した航海記で、それによれば前500年頃、ハンノの率いるカルタゴの船団がジブラルタルを超えてアフリカの西海岸に到達したことを伝えていた。このポリビオスの発見した資料は後にギリシア語に訳され、フェニキア人がアフリカ西岸に達した証拠とされている。 → フェニキア人の項参照

コリントの滅亡に立ち会う

 マケドニア王国の滅亡後、アカイア同盟の都市は、人質を送ったことで存続が認められていたが、その中心都市コリントは、東地中海の中継貿易で利益を上げており、ローマの圧力に次第に抵抗を強めていった。一方ローマもコリントの自立傾向にいらだち、ついに前146年、両者は戦端を引いた(アカイア戦争)しかし、戦力の差は歴然で、ローマ軍による攻勢によってコリントは敗れ、徹底的に破壊されてしまった。このとき、ポリビオスはかつての祖国コリントに赴き、その荒廃した有様を目にして嘆いている。
 なおこの前146年は、西方でのカルタゴの滅亡と同年であり、ローマの地中海制覇が完成した年であると共に、ギリシアの古代都市国家の時代の終焉の年と言うことができる。