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カルタゴ

地中海交易で栄えた北アフリカのフェニキア人植民都市。前5世紀ごろから西地中海の制海権を押さえて通商国家として繁栄、前3世紀中ごろからシチリア島をめぐってローマと対立し、ポエニ戦争となり、敗れて前146年に破壊された。ローマはその地を属州として支配、7世紀以降はイスラーム化し、現在はチュニジアに属している。

 フェニキア人の都市の一つティルスが、アフリカ北岸の現在のチュニスの地に建設した植民市。東地中海の海上貿易で活躍し、商業帝国を建設、イタリア半島の都市国家ローマの拡張期にその利害が対立することとなり、前3世紀中頃から100年以上、3次にわたるポエニ戦争を戦った後に敗れ、消滅した。 → 地中海のフェニキア人植民市

成立と繁栄

 伝承によれば、前814年フェニキア人の都市国家ティルスの王の妹エリッサが建設したとされているが、確証はない。「新しい都市」を意味する「カルト・アダシュト」をローマ風に読むと「カルタゴ」となる。フェニキア人は本国がペルシア帝国の支配下にはいるとその保護を受けて地中海交易で活動を広げた。しかし、同じように地中海に進出してきたギリシア人との間で交易圏をめぐって争うようになった。ペルシア戦争でペルシアとギリシアが戦うと、カルタゴはペルシア帝国側につき、前480年のサラミスの海戦と同じ時に、シチリアのギリシア植民市シラクサを攻撃したが敗れている(ヒメラの戦い)。

商業国家として繁栄

 ペルシア戦争後はアテネ海軍が強大となって東地中海を押さえ、カルタゴは西地中海を勢力圏とすることとなった。前4世紀にシドン、ティルスがアレクサンドロスに征服された時、多数のフェニキア人が移住し、それ以後地中海の中央に位置することから交易の拠点となり、商業国家として繁栄していった。すでに貨幣を発行し、その貨幣は西地中海の国際通貨となっていた。このころ、カルタゴの商船はジブラルタルを超えてブリテン島まで進出し、錫(スズ)などを得ている。
 カルタゴはシチリア島サルデーニャ島コルシカ島などを勢力下におさめ、ギリシア人植民市であるマッサリア(現マルセイユ)などと対立するようになった。またイベリア半島にはカルタヘナ(新しいカルタゴを意味するカルタゴ=ノヴァが語源)、アルメリア、バレンシア、バルセロナなどを築いた。シチリア島では西半分を支配し、東側のギリシア人植民市シラクサとの対立が激しくなった。そのシラクサがローマの援軍を要請したので、ローマはシチリア進出の好機と捉えてカルタゴと直接対決することとなった。

ポエニ戦争

 シチリア島をめぐるローマとカルタゴの対立から起こったポエニ戦争は、第1回前264年~前241年)でカルタゴがローマに敗れてシチリア島を失った。第2回前218年~前201年)では将軍ハンニバルが活躍してイタリア半島まで攻め込んだカルタゴ軍がカンネーの戦いで大勝利を収めたが、スキピオの率いるローマ軍に反撃されカルタゴ郊外のザマの戦いて敗れ、海外領土を失った。さらに第3回前149年~前146年)でローマ軍によってカルタゴはことごとく破壊され、前146年に滅亡した。市民はすべてがローマ軍によって殺されるか奴隷にされるかいずれかであったという。
 カルタゴの地を支配下に入れたことでローマは東地中海を制覇し、並行して展開されたマケドニア戦争でギリシアを制圧し、東地中海をも押さえた。地中海沿岸で残るのはプトレマイオス朝エジプトのみとなった。
 カルタゴは徹底的に破壊され、ローマは当初は復興も許さなかったが、豊かな土壌を生かそうとしてカエサルが復興を企てた。その後、属州アフリカとしてローマに穀物を提供する重要な植民地とされた。現在チュニジアの首都チュニスの郊外でカルタゴ時代の遺跡・ローマ時代の遺跡が確認されている。

カルタゴの敗因

 ポエニ戦争でのカルタゴはハンニバルに代表されるようにローマとよく戦い、その地中海支配に抵抗した。しかし最終的に敗れ、ローマの大国化を許した。カルタゴの敗因は古来、さまざまな説が行われているが、一般に定着していることは、カルタゴはもともと交易に依存する海洋帝国で、領土拡大の意欲がなかったこと。そのため海軍には市民が参加し強大だったが、陸軍は市民は参加せず、リビア人などの傭兵に依存し、また指揮に当たる軍人もローマのように文民が元老院から派遣されるのではなく、職業軍人であったので私利私欲に動くことが多かったこと。またハンニバルは優れた戦術家であったが、イタリア半島に攻め込みながら半島内に反ローマ勢力を形成してそれらと結んでローマを包囲するという戦略がなかったこと(あっても失敗したこと)、などが挙げられている。

参考 フローベールの『サランボー』

 『ボヴァリ夫人』・『感情教育』などの写実主義文学の代表的作家フローベールの作品に『サランボー』(1862)がある。サランボーは実在の人物ではないが、第1回ポエニ戦争後に実際にあった傭兵の反乱を背景に、古代のカルタゴを舞台として濃密な物語が展開されている。特に、カルタゴに特有の「幼児犠牲」の場面など、密度の濃い(つまり読むのには骨が折れる)歴史小説であるので、『カルタゴの興亡』や『通商国家カルタゴ』などを参考にしながら読むと好いでしょう。

アウグスティヌスの時代

 ローマ時代のカルタゴは、その属州(プロヴィンキア)アフリカの中心都市として栄えたが市政はローマ人に抑えられ、ラテン語が用いられ、ローマ風の建築が多数作られた。このローマ風建築は現在も遺蹟として見ることができる。このように完全にローマ文化化したカルタゴであったが、ローマから遠く離れ、エジプトに近いアフリカ北岸に位置していたため、独自の要素も強かった。
 ローマ帝国末期の4世紀、キリスト教教父アウグスティヌスはカルタゴに学んでいた若い頃、放蕩生活を送るとともに東方起源のマニ教を信仰していたことを『告白』で詳しく述べている。また、アウグスティヌスの時代には、カルタゴの地にゲルマン人の一派のヴァンダル人が侵攻し王国を建設、その支配を受けることとなった。

Episode 情事のサルタゴ

 紀元後4世紀後半、17歳のアウグスティヌスは文学研究のためにカルタゴに出てきた。そのときのことをその著作『告白』の中で、こんな風に述べている。
(引用)私はカルタゴにきた。するとまわりのいたるところに、醜い情事のサルタゴ(大鍋)がぶつぶつと音をたててにえていました。私はまだ恋をしていませんでしたが、恋を恋していました。そして欠乏をそれほど感じない自分をにくんでいましたが、それは内奥に欠乏がひそんでいたからなのです。私は恋を恋しながら、何を恋したらよいかをさがしまわり、安穏で罠のない道を嫌っていました。<アウグスティヌス/山田晶『告白』Ⅰ ちくま学芸文庫 p.99>
 これはしゃれの好きなアウグスティヌスらしく、サルタゴをカルタゴをにかけたもの。山田訳では大鍋の意味としている。カルタゴ(その新市街であろうが)はローマ時代も北アフリカの大都会として繁栄し、さまざまな欲望と誘惑が渦巻いていた。そこであえて「罠」を求めていたアウグスティヌスは身分の低い女(おそらくは商売女)と同棲する。放蕩と無頼の生活を送るうちに、母モニカの嘆きをよそに、マニ教にのめり込んでいく。その舞台がカルタゴだった。

その後のカルタゴ

 紀元後5世紀にはゲルマン人のヴァンダル人が大移動を来ない、イベリア半島から北アフリカに入り、この地に国を建てた。6世紀にはユスティニアヌス帝によってヴァンダル王国が滅ぼされて、ビザンツ帝国の支配下に入った。しかしその地中海支配は長続きしなかった。
 7世紀のはじめ、東方のアラビアに起こったアラブ人の宗教イスラーム教は、急速に成長し、東地中海ではコンスタンティノープルを攻撃してビザンツ帝国を脅かし、ついにエジプトを征服、さらにイスラームの西方征服は、ウマイヤ朝の時代に急速に伸び、697年にはカルタゴが征服された。
 北アフリカのイスラーム世界は、次いでアッバース朝の支配を受けることとなる。この間にイスラーム化したこの地の住民はベルベル人と言われ、旧カルタゴに隣接してチュニスを建設し、この都市はアフリカ北岸の交易の中心都市として栄えた。 → 以下、チュニスおよびチュニジアの項を参照。
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書籍案内

松谷健二
『カルタゴ興亡史』
1991 中公文庫

ベシャウシュ/森本哲郎監修
『カルタゴの興亡』
知の再発見双書
1994 創元社

佐藤育子・栗田伸子
『通商国家カルタゴ』
興亡の世界史 2009
講談社学術文庫 2016