印刷 | 通常画面に戻る |

ヘロドトス

前5世紀のギリシア古典期の歴史家で、ペルシア戦争をテーマに『歴史』を著した。「歴史の父」とも言われる。

 前5世紀のギリシア・アテネの歴史家。ペルシア戦争を描いた『歴史』を著す。この書はギリシアのみならず、オリエント世界についての正確な情報も提供する、優れた歴史書であり、かつ、人類最初の本格的な歴史叙述とされ、ローマの弁論家キケロは彼を「歴史の父」と賞賛した。『歴史』の中で「エジプトはナイルのたまもの」と評したことも有名。
 ヘロドトスは前480年(つまりペルシア戦争が始まった頃)、小アジアの西南部のハリカルナッソスに生まれた。前455年頃、デロス同盟の盟主として全盛期を迎えていたアテネに滞在し、ペリクレスとも親交を結んだ。その後は小アジア、エジプト、フェニキア、バビロン、黒海北岸などを歴訪した。彼はアテネの繁栄のもととなったペルシア戦争の歴史を書いたが、それはアテネの立場からだけではなく、ペルシアなど東方世界に対する広い見聞と知識によって豊かなものとなった。  前443年、南イタリアに赴き、アテネの植民市トゥリオイに参加、そのままとどまり、前425年頃に死去した。

『歴史』

ヘロドトスの著した、ペルシア戦争を中心とした歴史書。物語性に富んだ記述で、トゥキディデスの『戦史』と双璧をなす。

 前5世紀のヘロドトスによって書かれたペルシア戦争を主題とした歴史書。古代ギリシアのみならず、人類最古の歴史書とされる。ただし正確な記録と言うよりは、「物語風の歴史」とされるのが特徴で、人物や戦闘が生き生きと述べられており、その点ではホメロスのトロヤ戦争の記述に近いものがある。ただし、ヘロドトスは直接ペルシア戦争に参加してはいないので、資料的価値としては高くはない。それよりもギリシアからオリエントにかけてのさまざまな情報を伝えている宝庫として貴重である。
 ヘロドトスと並び称されるトゥキディデスの著した『戦史』は、前5世紀後半のペロポネソス戦争を題材にしており、「客観的な歴史記述」を特徴としている。

資料 ヘロドトスのペルシア戦争論

 ヘロドトスは、『歴史』巻7で、ペルシア戦争におけるギリシアの勝利について論評し、アテネの果たした役割を次のように高く評価した。
(引用)さてここで私としては、必ずや大多数の人々の不興を買うであろう見解をどうしても述べねばならない。そうと判っていても、それか真実を衝いていると私に思われる限りは、それを開陳することを差し控えることは私にはできないのである。すなわち、もしアテナイ人が迫りくる危難に怯えて祖国を放棄していたならば――、またよし放棄しなかったとしても留まってクセルクセスに降伏していたとすれば、海上でペルシア王を迎え撃たんとする者は皆無であったろう。海上でクセルクセスに当る者がなければ、陸上における情況は次のようなものとなったに相違ない。すなわち、ペロポネソス軍の手により地峡を横断して防禦壁が幾重にも張りめぐらされていたとはいえ、ペルシア海軍によって都市を次から次に占領されてゆけば、スパルタの同盟諸国も不本意ながらスパルタを見捨てるほかはなく、スパルタは孤立無援の状態に陥ったであろう。スパルタ軍といえども孤立しては、よしや目覚ましい働きを示したとしても所詮は玉砕するのほかはなかったと思われる。スパルタ軍としてはこのような運命に遭うか、さもなくばそれ以前に、他のギリシア諸国かペルシア方に与するのを見て、クセルクセスと和議を結んだであろう。このようにして、いずれにせよギリシアはペルシアの支配下に甘んずることとなったに相違ない。というのも、ペルシア王によって海上を制せられては、地峡にめぐらされた城壁も、果してどれほどの役に立つたか、私の判断に苦しむところだからである。
 かくてアテナイかギリシアの救世主であったといっても、それは真実の的をはずれたものとはいえぬであろう。事実アテナイがいずれの側に与するかによって、運命の秤がいずれに傾くかか決せられる情況だったのである。そしてギリシアの自由を保全する道を選び、ペルシアに服せずに残ったあらゆるギリシア人を覚醒させ、神々の騏尾に附してペルシア王を撃退したものこそこのアテナイ人にほかならなかった。デルポイから伝えられ、アテナイ人を恐怖に陥れた恐るべき神託も、アテナイ人にギリシアの放棄をうながすには至らなかったのであり、彼らはあくまでも踏み留まり、自国領に迫る敵を敢然として迎え撃ったのであった。<ヘロドトス/松平千秋訳『歴史』下 岩波文庫 p.87-88>
印 刷
印刷画面へ
書籍案内

ヘロドトス
松平千秋訳
『歴史』
上中下 岩波文庫