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アカイア人/アカイア同盟

バルカン半島から南下したギリシア人の一派で、前1600年頃、ミケーネ文明を興し、線文字Bなどを作った民族。後にアカイアはペロポネソス北部地方の地名と為り、ヘレニズム時代にはこの地のコリントなどアカイア同盟を結成したが、ローマに征服され、その属州となった。

 古代ギリシア人は前2000年ごろ(最近では前3000年ごろとも言われる)からバルカン半島に南下し初め、その中の東方方言に属する一派のアカイア人は前1800年ごろにはギリシア本土からエーゲ海に広く活動するようになり、メソポタミア文明の影響を受けて青銅器文明段階に入った。そのうち、ギリシア本土に定住したアカイア人は、前1600年ごろ、先行のクレタ文明に代わってミケーネ文明を形成し、ミケーネ王国などの王国を作った。彼らは独自の線文字Bを使用してギリシア語を表記し、オリエント的な専制権力を持つ国王のもとに貢納王政という体制を作り上げていた。

ドーリア人に征服される

 ミケーネ文明が前12世紀ごろ崩壊し、暗黒時代を通してギリシア人の別の一派ドーリア人が鉄器の使用をテコに有力となると、先住民のアカイア人は征服されて被支配層になった。スパルタのヘイロータイといわれる人々はアカイア人と考えられている。
 ホメロスの『イーリアス』・『オデュッセイア』が物語るトロイ戦争では、アカイア人はギリシア人の総称として用いらてており、ギリシア人の統合が進んだことを思わせる。アカイアは次第にギリシアのあるペロポネソス半島をの北部地域を示す、地名となっていった。、

アカイア同盟

 アレクサンドロスの大帝国がいくつかのヘレニズム国家に分裂した前3世紀には、ペロポネソス半島北部の都市国家はアカイア同盟という都市同盟を結成し、アンティゴノス朝マケドニアやセレウコス朝シリア、プトレマイオス朝エジプトなどの強国に対して存立を維持した。アカイア同盟の成立の時期は前5世紀半ばに遡るが、前4世紀には貨幣も発行し、前280年にコリントなど4つの都市の同盟として有力となった。前3世紀後半にシュキオンのアラトスという人物に指導され、マケドニアやスパルタ、アテネなどに対抗し、コリントは中継貿易で栄えた。
 なお、ヘレニズム期のギリシアには、南西部にアイトエア同盟があった。アイトリア同盟も、マケドニア、セレウコス朝とローマ帝国の間にあって揺れ動き、前189年、ローマに服属した。

人質ポリビオス

 前2世紀にはローマの東方進出が始まり、東方の大国マケドニアと覇を競う状況となった。ついにマケドニア戦争が始まると、アカイア同盟は中立の態度をとったが、前168年のピュドナの戦いでにマケドニア王国は敗れ、翌年滅亡した。戦争中、ローマとマケドニアの間で立場を明確にすることを躊躇したアカイア同盟は、主な指導者1000名を人質としてローマに差し出すことを命じられた。この人質がギリシアに帰還することを認められたのは16年後のことだった。このときの人質の一人がポリビオスであった。彼はアカイア同盟の政治家であったが、ローマに送られると将軍パウルスの家に留め置かれ、そこでパウルスの息子(後の小スキピオ)と親しくなり、ローマの歴史を叙述する歴史家となる。

ローマの属州アカイア

 アカイア同盟のコリントはその後も中継貿易で繁栄していたが、ローマは今度はコリントに矛先を向け、前146年にローマ軍はコリントを徹底的に破壊した。これによってアカイア同盟は解体された。こうしてギリシアのマケドニアとアカイアはそれぞれローマの属州として支配され、ローマ帝国に組み入れられることとなった。
アカイア公国 なおアカイアという地名は、13世紀の十字軍時代に復活する。第4回十字軍の時、1205年にペロポネソス半島にアカイア公国を建設、それが1430年まで存続している。この十字軍国家の一つは、ビザンツ帝国によって併合される。
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